叡福寺は、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓前に営まれた寺院で、磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた・
では、参詣いたします・・・
写真右下:額は「聖徳廟」・・総理大臣、岸信介謹書である
多宝塔は1652年、江戸の三谷三九郎の再建。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像。西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。木割りは太目で近世では正統派に属する塔である・・と、ある |
金堂・・・棟札によって享保十七年(1732年)の明確な金堂(附棟札)である
本尊は高さ90cmの如意輪観音の坐像、聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているという、脇侍は不動明王と愛染明王・・と、記されている
重要文化財・・聖霊殿・・・
聖霊殿(太子堂)は、慶長八年(1603年)豊臣秀頼が再建したもので、桃山時代の特徴をよく示していると・・・
二天門・・・奥に御廟を見ることができる
太子廟の七不思議・・・Wikipediaで発見、引用します・・・
・1:樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
・2:鳥が巣を造らない。
・3:大雨が降っても御廟の土が崩れない。
・4:御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
・5:メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
・6:御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
・7:寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった
二天門、廻廊・・左奥、鐘楼・・・
鐘楼・・・大阪府指定文化財 肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる・・ |
見真堂・・・親鸞聖人自作の御尊像を祀る・・
向排が右に傾いて下がっていますね・・・解体修理寄付を募っています・・
拝観料は無料ですが・・ トイレ使用料・・50円 利用時間、午後4時半まで・・・ ・・・有料トイレは初めてです! ・・・で、チャリンと入れました・・ 落ちたときの音・・ お金が積もっている音でした・・ 正直者が多いです・・はい! |
門前の町並・・大きな御屋敷が・・いい雰囲気ですね!
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある
写真左下:下から見上げた、西方院
写真右下:西方院から見た、叡福寺・・一直線で、南大門、多宝塔、金堂の屋根・・叡福寺北古墳が見える
聖徳太子御廟所・・磯長山、叡福寺を参詣いたしました・・・どこか、違う感があります
なんでしょう?・・聖徳太子御廟所だからでしょうか?・・
法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院での叡福寺・・一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称され親しまれている・・・と、したら「下の太子」、「中の太子」にも行かなければ・・・
では・・次の機会に伺いましょう・・・
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