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2014年11月21日

聖徳太子御廟所・・磯長山、叡福寺・・大阪府南河内郡!

友人のすすめで 大阪府南河内郡・・磯長山、叡福寺・・向かいます・・!

叡福寺は、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓前に営まれた寺院で、磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた・

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であることから、太子時・御廟寺・聖霊院の号もあり四天王寺・法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。
寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると、推古天皇三十年(622年)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために、一堂を構えたのが当寺の始まりで、神亀元年(724年)聖武天皇、勅願によって、伽藍が造営されたといわれている。
現在の伽藍は、天正二年(1574年)織田信長の兵火で焼失したあと、相前後して再建されたものである。
境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621年)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして亡く なられた聖徳太子、同妃勝部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟と呼ばれ、空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮、證空の諸賢聖のほか名僧、知 識の参籠が多く、現在も太子に会わんが為に善男善女の参詣がたえることがない。・・・河内国、上之ノ太子、磯長山、叡福寺縁起より引用・・

では、参詣いたします・・・
石段をから見上げた南大門・・1574年の兵火で焼かれ、慶長年間に再建、腐朽のため昭和33年再々建築したとある
写真右下:額は「聖徳廟」・・総理大臣、岸信介謹書である
南大門に安置されている金剛力士・・・
南大門から一直線に御廟がみえる・・・
重要文化財・・宝塔は承応元年(1652年)に建立されたされた
写真左下:休憩所に飾ってあった三尊像の写真を・・又、パチリ・・・
多宝塔は1652年、江戸の三谷三九郎の再建。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像。西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。木割りは太目で近世では正統派に属する塔である・・と、ある

金堂・・・棟札によって享保十七年(1732年)の明確な金堂(附棟札)である
本尊は高さ90cmの如意輪観音の坐像、聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているという、脇侍は不動明王と愛染明王・・と、記されている

重要文化財・・聖霊殿・・・
聖霊殿(太子堂)は、慶長八年(1603年)豊臣秀頼が再建したもので、桃山時代の特徴をよく示していると・・・

二天門・・・奥に御廟を見ることができる
二天が祀られている・・1688年、当国の丹南藩主・高木主水正が、回廊・上の御堂・鐘楼などと一緒に寄進したとある・・・
御廟である・・
聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定されている

太子廟の七不思議・・・Wikipediaで発見、引用します・・・
・1:樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
・2:鳥が巣を造らない。
・3:大雨が降っても御廟の土が崩れない。
・4:御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
・5:メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
・6:御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
・7:寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった

二天門、廻廊・・左奥、鐘楼・・・
鐘楼・・・大阪府指定文化財

肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる・・
浄土堂・・・

見真堂・・・親鸞聖人自作の御尊像を祀る・・
向排が右に傾いて下がっていますね・・・解体修理寄付を募っています・・
二天門から境内を眺がむる・・・懍とした空気が流れているような・・・身の引き締まる静寂です!
多宝塔・・逆光で、写真は難しいです! 再度、金堂正面から・・桁行五間、梁間四間
拝観料は無料ですが・・
トイレ使用料・・50円
利用時間、午後4時半まで・・・

・・・有料トイレは初めてです!
・・・で、チャリンと入れました・・
落ちたときの音・・
お金が積もっている音でした・・

正直者が多いです・・はい!

門前の町並・・大きな御屋敷が・・いい雰囲気ですね!

南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある
写真左下:下から見上げた、西方院   
写真右下:西方院から見た、叡福寺・・一直線で、南大門、多宝塔、金堂の屋根・・叡福寺北古墳が見える
西方院は、浄土宗知恩院末寺で、聖徳太子作の阿弥陀仏を本尊とする。厩舎王子(聖徳太子の本名)の侍女月益、日益、玉昭三姫が太子死去後に、剃髪して創建し、太子の冥福を祈って一生を終わったという・・・・

聖徳太子御廟所・・磯長山、叡福寺を参詣いたしました・・・どこか、違う感があります
なんでしょう?・・聖徳太子御廟所だからでしょうか?・・

法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院での叡福寺・・一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称され親しまれている・・・と、したら「下の太子」、「中の太子」にも行かなければ・・・

では・・次の機会に伺いましょう・・・

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