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2017年8月8日

三嶋田神社・・・中井権次一統の足跡を巡って 市指定文化財・・京都府京丹後市久美浜町金谷

中井権次一統の足跡を巡っています・・・
今回は、京都府京丹後市久美浜町金谷、京丹後市指定文化財本殿を持つ・・・
丹後半島でも屈指の神社・・・三嶋田神社です

鳥居の脇に立つ石燈籠と狛犬・・京丹後市指定文化財の標識が誇らしいですね



広い境内です・・
拝殿・・・
瓦葺入母屋造・・屋根瓦にいくつも鯱がありますね・・・

拝殿から眺める、本殿の向拝下部・・・ここからでも、なにか、凄さが伝わってきます
・・・祭神は、大山祇命
うん? アシナガバチが数匹飛んでいる・・・ヤバイ! 上、見れば・・・巣!

そこは、なんとか回り込んで・・・おおおぉ・・丹後半島、屈指の社殿が・・・

三嶋田神社は江戸時代には三嶋田大明神とよばれ、式内社に比定される。
当社が比較的に数の少ない三間社の形式をもつのは、中世荘園の鎮守の伝統を受けつぐためなのであろうか。
現在の本殿は、棟札により天保十三年(1842)に近在の金谷村の大工が建てたことがわかる
・・・京丹後市文化財説明より引用

そして、さらに、説明文では・・・・
向拝中央間の龍の彫物の背面に陰刻した銘「彫物師、丹刕相原町住人、中井権次正貞」は、建物の随所を飾るすぐれた彫物の作者を示す。
派手な動きの龍・鷲・獅子がにらみあい、虹梁や斗棋中備に大波が立ち騒ぐ、バロック的な表現である

・・・バロック的な表現・・・このような説明は、なかなかお目にかかれないので、引用させていただきました・・・m(_ _)m


兎の毛透し・・・

おおぉ、三間社中、向拝の、獅子噛みと、龍・・・見事です 

三間社、右側

三間社、左側

手挟み


左、脇障子・・・




右、脇障子・・・


龍の背面の刻銘を探してみよう・・っと!

龍の背面の刻銘・・・彫物師、丹刕相原町住人、中井権次正貞・・・


奉納額・・明治三?までは、わかるが・・

鳥居が二つある・・

神社、玉垣沿いに真っ直ぐな道・・・北へ・・古代の街道であったことは判明していると・・・





三嶋田神社石仏・・・

ここに奉祀されている石仏は、三嶋田神社の東方「神宮の森」にあった、三六嶋田神社別当神宮寺の祭られていたものである。(別当神宮寺とは、神仏習合思想に基づき、神社に付属して建てられた寺で、祭祀や管理を司っていた。)
 神宮寺廃絶後、石仏は三嶋田神社境内に移転安置されていたが.明治初年の神仏引き分けにより、神社境外に覆い屋を建て、再び移転された、その後、昭和四十四年に行われた土地基盤整備事業により現位置に安置され、現在に至っている。
 中央の大きな石仏三体は釈迦如来を中心に左が地蔵菩薩、右が聖観世音菩薩である。
 釈迦如来の背部には「神宮寺六十六部供養、永享十二年庚申(1440年)六月十九日」と記銘されている。
 また、聖観世音菩薩の背部には「千部経供養施主 源 貞総」の記銘が残る。
 この三体の石仏は、三嶋田神社の祭神の本地仏で、宝永三年に建てられた同神社の旧鳥居に刻まれている梵字、(バク)(釈迦)、(サ)(観音)、(カ)(地蔵)とも一致する。(本地仏とは、日本古来の神に姿を変えて、衆生救済をされる仏のことをいう。これは仏か万物の根源である、という考えに基づいており中世においては、主の神社では本地仏が定められていた。)
 地蔵菩薩の左は、庚申塔で日輪月輪の下に「天の邪鬼」を踏みつけた三眼六臂の青面金剛が刻まれている。
 その左側の小祠は、基盤整備の際、小字イカシマ三五七番地付近より現地に移転されたもので、内部に五輪塔の水輪と六地蔵の刻まれた石幢の龕部が祭られている。この六地蔵は神宮寺地蔵菩薩と伝承されており当初祭られていた位置が神宮寺の跡とも推察される。
 聖観世音菩薩の右側には石祠を有する板碑がある。
 この板碑には、地蔵菩薩が彫られており、別名を麦飯地蔵と呼ばれている。古来より麦飯の嫌いな者がこの地蔵尊を信仰すれば、麦飯か好きになり、体も丈夫になると伝えられている。また、この地蔵尊は昔、狐に化かされた侍が刀で切りつけて二つになった、という話も伝えられている。地蔵尊の年代は、こに祭られている石仏中、最古のものと伝えられるが不明である。因みにこの唐破風造りの石祠は後から造られたものと考えられ、側面には「宝暦二年(1752年)七ヶ村氏子中」と刻まれている。
 その右には、宝篋印塔がある。これは宝珠相輪が欠けでいるものの「中心飾付格座間」を刻み、室町時代に造られたと伝えられる。
 その右側の大師像は明治時代初期に前述の覆屋を建てた際に合祀されたと思われる。
 最後に一番右側にある四体の地蔵尊は、現在地より北へ二百米の場所、通称チシャの木(小字古戸三〇八番地の東南隅附近)にあったものである。
これも基盤整備により.現在地に移転安置されたもので、その際、当初祭られていた地点から多数の灯明皿か゜出土したことが知られている。
 この他に現在、神社の前を通る道が古代の街道であったことが判っており、石仏の存在、由緒等と合せて歴史考察の上で大変貴重な資料となっている。
久美浜町教育委員会 金谷区



掲載したき写真は、数多く・・・困るほどです・・・
久しぶりに、三間社造の社殿を拝見し、中井権次正貞の彫刻の数の多さと、その素晴らしさに、惚れ惚れと、見入ってしまいました・・・

アシナガバチさえ、飛び回っていなければ、未だ未だ、拝見したかったのですが・・・(^^;)

再び、訪れたい、社殿の一つに加わりましたね・・・

ほんと、見事でした・・・



参拝日:2017年8月4日



 






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