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2017年8月12日

日御崎神社(蛭児神社)・・・中井権次一統の足跡を巡って・・京都府京丹後市久美浜町湊宮1662

中井権次一統の足跡を巡って、京都府京丹後市湊宮、蛭児神社を尋ねます
この蛭児神社は、中井権次一統作品集には、住所から日御崎神社として掲載されています

蛭児神社の由緒書に、日御崎神社と表記されています

いつも、参考にさせていただいている、丹波新聞、中井一統の技というコラムにもて蛭児神社として記されています
京都府京丹後市を走っています・・・これは、ぜひ、参拝、拝見せねばと・・・

府道11号線、久美浜小付近からのパチリ・・・久見浜湾です、キレイですね!・・・初めてですかね? 来たような? う~ん?
久美浜湾を右に見て、北上します・・・
・・・民宿だらけ、そらそうでしょう・・・これからが、稼ぎ時、夏本番です

社頭に着きました・・・
・・・この社頭の前は、交番・・「P」は本殿の裏手にありました・・・


蛭児神社・・・
御祭神:天津日高彦穂々出見尊、 火遠理命、 豊玉毘売命

由緒・・・当社は住古日留居大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されておりましたが、鎌倉時代の建暦年間(1211~12)、勅定に依り、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれています。
『玉葉集』に鎌倉右大臣の歌があります。
「神風や朝日の宮の宮移し影長閑なる代にこそ有けれ」とあります。朝日の宮は即ち当社のことで、当時の造営が成り遷宮の有様を詠んだものであります。
後年社殿の炎上によって大永二年(1522)壬年8月18日再造営がなされた事は、丹後旧事記其の他の記録により明らかであります。幕政時代、湊宮に船見番所がありましたが、享保二年代官飯塚孫二郎の代に、船見番所を改めて陣屋が置かれた。
其の当時、代官の崇敬があった様で、御剣一口の奉納の記録があります。
日留居大明神は延喜式の所載(第60代醍醐天皇の時代(897~927)に編修された神社明細帳)の村岡神社との説があります。
日留居は蛭児であることから後年社名を蛭児神社と称するようになった。
明治43年拝殿を改築し、玉垣・石垣をも改修、其の他の設備も加えて、摂社大川・日御碕神社の整備も整い、境内の面目も一新した。
境内社稲荷神社は元稲荷山にあり、小泉市太夫代官の奉祀崇敬する社で、明治維新の際、現地に移転した。
さらに、平成21年、6月御本殿廻りの玉垣を僅か取り除き改修、其の他狛犬、灯籠の移設をも施した。正面のみ石垣を新調し周囲は旧石垣を積み直した。
境内西北程にも四神ヶ嶽山頂に向かい蛭児神社御鎮座の跡の遥拝所を造営し鳥居を建立した。 四神ヶ嶽(ジジラともいう)蒲井村より大向村へ越える処の右の方に当り、この山上に村岡ノ神社がある。日留居大明神と云うとある。
「丹後府志」に、次のような記述があります。関が原の役のとき、福知山の城主小野木継殿介が、細川越中守の留守に乗じて、田辺の城を攻めた。是に於いて、玄旨法印は、長岡玄蕃頭の妻及び松井佐渡守の妻子を皆、田辺城内に呼び寄せ、その居城に火を放ち、一国一城のほかは、更に城塁を破壊し、悉く田辺城内に籠った。しかし、なにぶん急なことであり、久美より田辺に待機する時間はなかった。そこで、久美にいた佐渡の守の妻子は山深く隠れるように下知された。よって、大西三郎佐衛門、大西惣兵衛などお供してこの山に隠れたとあります

摂社:大川神社・・  御祭神:五元五柱神 保食神 大己貴神 少彦名神 埴安姫神 大土御祖神 日
日御碕神社 ・・ 御祭神:天照皇大神 素盞鳴尊 境内社

稲荷神社(天満宮合祀)
・・・案内板より引用


拝殿・・・
本殿・・・
本殿、右・・・大川神社

大川神社・・  御祭神:五元五柱神 保食神 大己貴神 少彦名神 埴安姫神 大土御祖神 日



日御碕神社 ・・ 御祭神:天照皇大神 素盞鳴尊 境内社

左、日御碕神社 右、本殿・・・

丹波新聞、中井一統の技に、中井権次一統作品集に記されている日御碕神社・・・
・・・丹波新聞の記事には、六代目中井権次正貞の銘があると・・・

府重要民族資料・・・千石船三社丸
長さ2.98m :幅0.80m :深さ0.90m

江戸時代 湊宮には回船問屋が多くあった。この千石船三社丸は回船問屋仙助ほか 氏子崇敬者4名が寛政7年正月(1795)奉献したものである。千石船は米千石を積むのであるが、船の大小は帆の大きさで決まり、帆二十反が千石 この船は千四百石の 大きさの模型として作られている。 三社丸は当区の氏神、蛭児神社と摂社 日御前神社、大川神社の三社に因んだものである。 明治時代までは旧暦正月11日船おろしと言う行事がおこなわれて海上の安全と 豊漁が祈願なされていた。
・・・案内板より引用

千石船三社丸・・・

千石船の由来
正親町天皇の天正十年、湊宮が時の城主一色守護の領地であった頃、同地に 五軒家(木下、本小西、浜小西、下家、新家)という回漕業を営む豪商が住み、土地の大半はこれらの家々が屋敷として所有し、住民とは親方子方の関係を結び、子方は全て五軒屋に衣食さし持船三十八隻に乗り組ませて旭の港を根拠地にして外国と貿易を成し盛威を振っていた。
寛永十三年、幕府の命令で(鎖国時代であった)船の型を千石船に制限された。
それ以来国内貿易に転じ、北はエゾ松前(北海道)から西は下関(萩)兵庫(神戸)難波(大阪)江戸(東京)までをその活動の範囲と成した。 これがため、家運は以前にも増して益々繁盛し、津々浦々にその威勢を知られるところとなった。 その後寛政11年、住民が豊漁祈願と併せて五軒家の全盛時代の遺跡を記念するため この船の模型を土地の氏神様に奉納したものである


社務所・・・

ホント、遠くまで、来たもんだ・・・ってね!
最近、日本海周りが主です・・・これからは、更に久美浜より、西、城崎方面、豊岡市へと・・

丹波新聞、中井一統の技の記事のお陰で、蛭児神社を、知ることができました・・・m(_ _)m

こうしてみると、未だ未だ、一覧表にない寺社仏閣がありそうですね・・(*^_^*)

そして、大発見・・・久美浜湾には、その海に面して、久美浜カントリークラブ・・ゴルフ場があるのです・・・
・・・見ていると、グリーンが、その先は海・・・海に向かって打つ・・・い~や! 面白そうですね!!


参拝日:2017年8月4日











2017年8月11日

神谷神社・・・京都府京丹後市久美浜

中井権次一統の足跡を巡って、宗雲寺へ向かっていた、道沿いに・・・立派な神社が・・・・
これは、見て見ぬふりはできません・・・帰途、参拝です

備忘録記するとき、分かったのですが、参道は、下図の右久美浜駅の左の赤丸が社頭です

厄除、方除の大社・・・神谷太刀宮とあります
神谷太刀宮・・

神谷太刀宮四道将軍の一人で、山陰地方を平定、開拓した丹波道主命を祀る神社です。道主命亡き後、道主命所有の国見の刀を神霊として祀り太刀宮と称しました。神谷神社は創立1千年後に大破、太刀宮と合祀したため神谷太刀宮と呼ばれています。延喜式の神名帳に記録されている由緒深い社で境内外には十数余りの社が鎮祭されています。


この鳥居は、北西に位置します
・・・鳥居の脇には、「式内郷社 神谷神社」と刻まれた社号標があります

境内の神谷神社、由緒・・・
神谷神社は、通称「神谷太刀宮」「太刀宮」と称し延喜式の神名帳に記され る神社である。
現在の本殿は天明元年(1781)に建てられた。
桁行き二間、入母屋造りの桧皮葺の出雲地方に多い大社造の系統をひく建物であり、彫刻 も精巧なものとなっており「太刀宮造」と称され この地方では例のない神社建築である。
神門も切妻造の四脚門で格天井を張るなど意匠に優れ、境内社 八幡神社本殿も、小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾 豊かな建物である。
祭神として 丹波道主命、八千矛神、天神玉命、天種子命を祀る。 丹波道主 命は 四道将軍として丹波に派遣されたと「日本書紀」に記される。

神社では 丹波道主命が 丹波平定の後、明神谷に出雲国より八千矛神、天神玉命、天種 子命の三座の神々を迎え 出雲の人々の歓心を得、社殿を創建したのに始まる と伝えられる。  
丹波道主命は、丹波河上摩須郎女をめとり、五子を授かる。
その娘の 日葉 酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后となる。神谷神社は 旧郷社であり、社蔵文書 によると文禄五年(1596)城主 松井康之から用地寄進を受けていること がわかる。  
鳥居は石造明神鳥居で、宝永四年(1707)に建てられたものである。
八幡山の山麓に巨石を擁し、自然崇拝の「磐座」の様相を呈し、境内地一帯 は、京都府文化財環境保全地区に指定されている。  
境内の参考館(考古館)は、旧久美浜県庁舎 玄関棟の建物の一部で、明治 初期の武家屋敷の流れをひく役所建築として貴重である。
神谷神社本殿: 京都府指定文化財 昭和六十年指定
神谷神社神門: 京都府登録文化財 昭和六十年登録
八幡神社本殿: 京都府登録文化財 昭和六十年登録
鳥居: 京都府登録文化財 昭和六十年登録
参考館(旧久美浜県庁舎玄関の一部): 京都府指定文化財 昭和六十年指定
文化財環境保全地区 京都府指定文化財 昭和六十年指定
・・・境内案内板より引用・・・



広い、砂地の境内・・・

神門・・・
・・・切妻造の四脚門で格天井を張る



格天井・・・

下から向拝を眺めると・・・おおぉ、立派な龍が・・・
・・・この位置からのみ、龍と正対する場所ありません

本殿は真四角の大社造り・・・「太刀宮造」と称され この地方では例のない神社建築である
・・・出雲型式の社殿は丹後では当社だけのようです

見事な彫刻です・・
・・・向拝の正面から彫刻は、これぐらいしか見えませんね・・・
手挟み・・・

う~ん! イイすね・・・なんといいましょうか? 傑作ですね

精巧な彫刻が沢山あります・・・


道路を挟んで、磐座があります・・・ここも、境内なのですね・・・

八幡神社・・・

八幡神社・・・
・・・小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾 豊かな社殿です

神谷磐座・・・
神谷神社境内の一角に巨大な盤座(信仰対象の岩)があります。
片方の巨石の割れ目の方向は南北に開いており、北向きの隙間の延長線上には北極星があります。
古代の人々は北極星の動きを観測し、天体と自然を司る神として考えておりました。
もう一つの割れ目には夏至に太陽の日の出が入る方角に開き、反対側は冬至に太陽が没する方向に開いています
最近まで、女人禁制だったらしい・・・

           磐座下部の南北スリット・・・・

注連縄のある岩が磐座の中心になる石
・・・夏至のとき、岩石の割れ目から太陽の光を受ける石(ヒールストーン)です
ここは、自然の神々の中心的な存在であるパワースポットです


磐座側から見た、本殿・・・本殿は真四角の大社造り



参考館(旧久美浜県庁舎御玄関棟) 京都府指定文化財
・・・旧久美浜県庁舎玄関棟の建物の一部で、明治 初期の武家屋敷の流れをひく役所建築として貴重である
ここが、「P」となっています・・・




見事な、神社でした・・・
本殿の彫刻もすばらしい・・・ググってみても、分かりませんでした・・・
そして、磐座・・・八幡神社・・・

京丹後市観光案内は、神秘な伝説のパワースポットと、紹介しています・・・
そうですね・・・確かに、この巨岩、そして、スリット・・・

人間の営みに、星、太陽崇拝、星信仰の最高神は北極星・・・古代から常に星が回る中心だったから星の最高神として祀られてきました・・・

上写真にある二つの垂直割れ目(スリット)から常に変わらない北極星を観察していたのです・・

・・ロマンで~すね・・・天と地を繋ぐ、神谷磐座・・日本における祈り場と天体観測装置の原点であり「和の源流」の地として、今も残っています・・・・・・・案内板より引用


参拝日:2017年8月4日




2017年8月9日

陵神社・・・中井権次一統の足跡を巡って・・京都府京丹後市久美浜町坂井

中井権次一統の足跡を巡っています・・・
京都府京丹後市久美浜町坂井・・・陵神社です

うん? ここが陵神社、社頭でしょう・・石燈籠、一基のみで、地図では、この場所です・・・

少し石段上がれば、鳥居が・・・神額には「陵神社」とあります

参拝に訪れる人は少ないのか、石段には、苔が、枯れ草が山積し、歩くのも注意が必要です

・・・石段上がるたびに、枯れ草が音をたてます・・・そうすると、べつに「がさごそ」と音がでます・・
よ~く、観察すると、虫、蛙などが、がさごそと・・・動いています・・・おいおい・・っと云っているようです!
社殿です・・
・・両脇の石筒は、石燈籠の竿の部分か?
拝殿両脇には、出雲構え狛犬か?・・・よく、構え狛犬がいますね・・・
拝殿から望む、本殿・・・近づくことが出来ないのが残念・・・・
刻銘さえ、確認できません・・・
・・・木鼻の唐獅子の面相が龍の面相が、どことなく、険しい表情ですね
板戸、両脇の彫刻・・・
拝殿前より、石段をみる・・・
・・・結構、急な、荒れた、石段であることが分かります・・

やっと、年代の分かるものが・・・天保二(1831)と読める
うん? 蜂箱か?

そうなんです・・・これ、社頭にありました・・・恐らく、由緒書・・・
・・・・一番上の文字が僅かに、「書いてあるなぁ」と分かるだけ・・・

この陵神社の詳細は、クグれども、分からない・・のです!!

ただ、陵神社古墳群 遺跡番号五〇、字海士小字別所に所在する・・古墳群は二一基からなり、川上谷川下流域左岸の丘陵上に立地する・・と!!

この内容は出てきましたが・・・(^_^;)
まぁ、そんな時もありましょう・・・

作品集一覧に掲載されているので、中井権次一統の足跡に間違いはありませんので・・・
彫刻をみて、何代目の作か、判別できるには、私の曇った眼では、少々、無理ですね・・・・(^_^;)


参拝日:2017年8月4日