おっちゃん二人して滋賀県野洲市、国宝の神社を巡っています
第二弾は、大笹原神社です
昨年のある日、TVで紹介されていたのを観て・・・ここ、行きたいと思ったのがきっかけです
そして、暖かく?なった今日この頃、京都の友を誘って来たわけです
ここが、その入り口
この先は、googleストリートビューにも写真はありません
しかし、先人の口コミで「P」の位置もわかりました
そして、暖かく?なった今日この頃、京都の友を誘って来たわけです
ここが、その入り口
この先は、googleストリートビューにも写真はありません
しかし、先人の口コミで「P」の位置もわかりました
さぁ、入っていきましょう
社頭です
この鳥居の左手に大きな「P」があります
国宝 大笹原神社
御祭神:須佐之男命・稲田姫命・八柱御子神 宇多天皇・敦實親王・佐々木高網公
須佐能命は天照大御神の弟神で人身上の悪疫悪病を除き健康・良縁・縁組・方除け・厄除けの神と霊験が広く知られた信仰を集めている
重文 篠原神社
重文 篠原神社
御祭神:石凝姥命比賣命
オキナ夫婦この地に斎場を撰び皇祖天神により鏡餅と称せられる世に篠原もちと称するはこの事なり、その子孫 石命比賣命の霊を祀り当町氏神地主の 餅の宮と称え奉る
拝殿がみえてきました
大笹原神社
大笹原神社 本殿は国宝で室町時代(一四一四年)に岩倉城主馬淵定信が再建したものです。 京都の金閣寺より十年後に建築され造りは三間社入母屋造檜皮葺、特に彫刻が 優秀で東山文化の粋であります。
本殿に向って左の建物は重文、春日造りの篠原神社で「餅の宮」とも呼ばれ鏡 餅の神が祭られています。 鏡餅発生の地といわれるこのあたりは全国でも名高い篠原餅の産地で、平安 時代より栄えた宿駅「篠原」では東山道(のちの中仙道)を行きかう旅人の腹をモ チ続け保存食またお土産品として販売しこの辺一帯が餅の名物となりました。
本殿右の池は寄倍の池と呼ばれ池というより水深が深い底なし沼であります。
その昔、水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、いかなる日照り続きであ ろうとも涸れることなくたえず満水になっているといい伝えられています。
拝殿背後、本殿へは柵のため、近づけません
しまった…望遠レンズは車の中!
国宝 本殿
国宝 大笹原神社本殿
大笹原神社は、寛和二年越知諸実が社領を寄進し、社殿を造営したと伝えられ、祭神は須佐之男命ほか六神を祀る。
現在の本殿は、棟札より応永廿一年(1414)に建てられたことがわかる。
形式は三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造本殿である。
形式は三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造本殿である。
装飾性に富む、華麗な本殿としては県内では屈指のもので貴重な建物である。
右側より一枚
棟札十一枚があるようでそれも含めて国宝とある
望遠レンズは車の中
と、なれば、クロップしかない
神紋
箱棟の上の神紋は、四目結で、 それは近江源氏佐々木氏の紋・・・由緒略記より
本殿・左側
花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の 柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻である
本殿・右側
本殿、左側に配置されている、重要文化財 大笹原神社 境内社 篠原神社本殿
本殿右手に配置する境内社
説明文を読めば、どこか不気味さを感じる池です
シダが生い茂るむこうに祠が見える
その祠に参拝するため、池の淵を行ってみるのだ!!
・やはり石灯篭があり、参拝できる
狛犬
手水鉢 刻銘がわからない
さぁ、帰途です
境内から見る、鳥居・石灯籠
拝殿においてあった、由緒略記をいただきました
内容を拝見すると、この地域の詳しい歴史が記載されているので、文字起しをしてみました
非常にわかりやすく、歴史書としても素晴らしい内容でもあります
・・・配布由緒略記より引用いたしました
棟札十一枚があるようでそれも含めて国宝とある
望遠レンズは車の中
と、なれば、クロップしかない
神紋
箱棟の上の神紋は、四目結で、 それは近江源氏佐々木氏の紋・・・由緒略記より
本殿・左側
花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の 柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻である
本殿・右側
本殿、左側に配置されている、重要文化財 大笹原神社 境内社 篠原神社本殿
この本殿は石凝姥命を祀る。
小屋内に棟札があって応永卅二年(1425)に建てられたことがわかる。
形式は一間社隅木入り春日造。小社ながら形態の優れた境内社本殿である。
形式は一間社隅木入り春日造。小社ながら形態の優れた境内社本殿である。
本殿右手に配置する境内社
寄倍の池
池と名が付いているが、ここは深い沼である
「その深さは 近辺に例が無く、どんなに日照りが続いても常に満水で涸れたことがない、二基の御神輿が沈められ、溶底深く眠ったままである」と伝えられている。
「その深さは 近辺に例が無く、どんなに日照りが続いても常に満水で涸れたことがない、二基の御神輿が沈められ、溶底深く眠ったままである」と伝えられている。
シダが生い茂るむこうに祠が見える
その祠に参拝するため、池の淵を行ってみるのだ!!
・やはり石灯篭があり、参拝できる
狛犬
手水鉢 刻銘がわからない
さぁ、帰途です
境内から見る、鳥居・石灯籠
拝殿においてあった、由緒略記をいただきました
内容を拝見すると、この地域の詳しい歴史が記載されているので、文字起しをしてみました
非常にわかりやすく、歴史書としても素晴らしい内容でもあります
この神社の場所は大篠原小字天徳で、この前方すなわち南一帯は小字「天王前」と申しま。
そこで明治の神仏判然令(明治元年三月、当時はまだ慶応四年といっていた。この神仏判然令が出てから廃仏毀釈運動が起こる)が出るまでは天王さん(詳しくいえば牛頭天王社、それは京都東山区祇園社、すなわち八坂神社と同じ祭神、素戔鳴尊・稲田比売命・その他)と申しました。はやり病(伝染病・流行病)を除く「徐疫神」としてまつられ、薬師如来の化身(神仏が形をかえてこの世にあらわれ、衆生済度をすること、うまれかわり)といわれ、また素戔鳴尊をその垂迹といいます。だからここから近い岩蔵寺の薬師(重要文化財の木造薬師如来立像・鎌倉)さんとは一体の神社でございます。
ところが明治になって、大笹原神社と改称されました。実は大篠原神社と申し上げるべきが、 この右(境内社)の篠原神社と同じ名もつけられませんので、シノ竹を、ササ竹にしてオオササワ ラ神社と名づけられました。
滋賀県には現在神社建築で国宝は八つございます(大津市の日吉神社西本宮本殿と拝殿・東本宮本殿と拝殿、 竜王町苗村神社西本殿、長浜市竹生島の都久夫須麻神社本殿、野洲市の御上神社本殿と大笹原神社本殿)その中の一つが この大笹原神社本殿でございます。
この神社は社伝によりますと、今より千年昔の寛和二年(986)に社殿が造営されたこととなっていますが、現在の建物(桁行三間 梁行三間 一重 入母屋造 向拝一間 桧皮葺)は室町時代の建築であります。そのことは応永二十一年(1414)の棟札(棟上の時、工事の由緒、建築の年月、建築者またはエ匠の名などを記して棟木に打ち付ける木製の札)によってわかりますし、また、領主馬渕広定の再建である事もわかります。全部の棟札十一枚をも含めて国宝でございます。
この本殿は前から外陣・内陣・内内陣と分かれ、内内陣はさらに三室に分割してそれぞれに神座が設けられて居ます。外陣は床を一段低くし、建具なども開放的につくられているのに対 して、内陣と内内陣は閉鎖的であります。
この本殿の特色は各所に配した彫刻の見事さでございます。外陣は花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の 柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻など、沢山ある県下の神社建築飾の豊富なことは第一であります。しかも、個々の彫刻は抑制されたなかにも力強さを発揮しており、優雅な姿とあいまって、室町時代建築のなかの優秀作でございます。
あの箱棟の上にサンゼンと光っている神紋は、申すまでもなく四目結(目結を四個並べた紋)で、 それは近江源氏佐々木氏の紋 でございます。そしてこの神社は大篠原の集落から大分遠くへはなれ、しかも、神社南面が定石とはいえ、集落をお尻にして建てられています。
そこでこの神社は、あの城山を守って居られるようでもあります。そこには佐々木氏の支流の砦(要塞)があったからでしょうが、それとも大篠原とは元は街道から遠くはなれた奥篠原の意味で、 もとはこの神社を中心に集落が在ったのかとも思われます。いずれかにしても、在所からあまりにも離れ、街道からも離れていたことが、戦火は勿論、災害に遭わなかったのかとも思われます。 次にこの境内社の篠原神社本殿は国の重要文化財で、これも棟札によりますと応永三十四年 (1427)(「上ふき応永三四年十一月秋」の墨書)に建っていたのでございます。この建築様式を春日造(切妻造・妻入・正面に廂をつけて向拝とし、棟に千木と堅魚木とを設ける、奈良の春日神社がその代表)と申します。
この神社は小さいが(一間社)、もともとはこの地の地主神(土地の守護神)で、村発生と共に在った神で、「往古より此所に御座候 当村氏神地主也 昔ささわら成時におきな夫婦きたれり、そしてこの地をひらき之を篠原大明神と申候」と社殿にございます。
ご祭神は餅の神様で、この辺は俗に篠原餅といわれる良質のモチ米の産地でございまして、今も良質のオブラート(紙餅)はこの地のモチ米で作られると聞いています。
この辺の田園は粳を植えても糯米になるとさえいわれ、こうしてモチ米の産地であると共に、この付近の山はまた見事な柿の産地でもございます。
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