経緯
2016年(平成28年)3月、灯台の沖合において、兵庫県が策定した「津波防災インフラ整備計画による「新川・東川統合水門」の建設工事が着工
それに伴い、大関が灯台として継続使用するための移設を検討し結果、約160メートル南西に位置する西宮市今津真砂町の対岸に移されることになった
それに伴い、大関が灯台として継続使用するための移設を検討し結果、約160メートル南西に位置する西宮市今津真砂町の対岸に移されることになった
2023年(令和5年)9月1日、台船でまず南西約160mにある対岸の仮置き場へ上部の木造部分が移設された。その後、基壇(底面約3.5メートル四方、高さ約1.6メートル)を構成する91個の石に番号を振って移設先に石積みが再現された。さらに灯台の木造部を基壇に固定する4本の石柱(長さ約2.5メートル)も3Dスキャナーにより同じように配置された]。そして、12月19日に灯台(木造部)が再設置された。再点灯の時期は2024年(令和6年)2月初旬の見込みだったが、基壇解体時に想定外の基礎が見つかったため、2024年3月末から4月上旬となる見通しとなった
(Wikipedia、西宮市より説明引用)
新位置、今津灯台
今津の酒造家「大関」醸造元、長部家五代目の長兵衛によって、今津港に出入りする樽廻船や漁船の安全を願い、文化7年(一八一〇) に建てられた灯明台が「大関酒造今津灯台」の起源です。その後 六代目文次郎が再建、台石の「象頭山常夜燈」は海の守り神金毘羅宮を表し、この高灯籠様式の灯台に、今津の人びとは深い親しみと 郷愁を感じています。この灯台は今も現役で活躍しており、市の文化財指定を受けています。新川・東川統合排水機場の整備に伴い、令和五年(二〇二三) 対岸から現在地へ移設されました。
樽廻船に江戸積みされた酒
宮水と酒文化の道
酒香る 西宮郷 今津郷
樽廻船に江戸積みされた酒
上方で船積みされた酒が江戸に到着するまでの日数は、江戸時代初期には平均3週間から1ヶ月かかっていましたが、 幕末期には、樽廻船と四斗樽で、 通常1週間ほどで運べるようになっていました。 それが新酒番船となると、早い場合には3~4日ですから、この間に10倍も速くなったことになります。
江戸の品川湊、佃島沖に碇泊した樽廻船から、酒は伝馬船に積み替えられて、霊岸島、 茅場町、新堀、新川に集中していた “下り酒問屋”に運び込まれます。 酒問屋は、 桝酒屋 (小売り酒屋) の注文に応じて、酒を売っていました。 新川 付近には、今でも酒蔵のオフィス があり、当時の酒蔵の “力”を感じさせてくれます。
灯質は従来の緑色から左岸を意味する赤色に変更された
「象頭山 常夜燈」
願主 六代目長部文治次良
文化七年(1810)建之 安政五(1854)再建
この灯台は、当会社の前身長部本店の第五代展部長兵衛が今を去る百五十五年前、文化七年(1810年)大坂谷町奉行所の許しを得て私財を投し、灘酒廻船などの出入船の航海安全のためこの他に建設。第六代長部文次郎が、安政五年(一八五八年)再建するなど代々その遺志をつぎ灯台の維持管理につとめ今日及んだ。しかしながら 長年の風霜を経た上に、灯台付近の環境に著しい変化をきたので、第十代長部文治郎が復元を志し、基盤の地上げ 櫓の補強などの工事を施し、今日その竣工をみたたものである
この灯台が久しく公衆に利益を与えてきた功績により 明治十七年(一九八四年)第七代長部文治郎に?授?集賞と銀盃が?賜された
昭和四十年十一月一日、大関酒造株式会社
「新川・東川統合水門」
その新川・東川統合水門のそばに「今津砲台跡」
幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府では勝海舟の建議を取り入れ、文久3年(1863年)、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、西宮砲台などと共に砲台の建設が開始された・・・Wikipediaより
うすい しんとう・・・これは新しい灯のことかなぁ? それとも、浸透?
無事に移転できたよかったです
この地、この界隈は、青春の思い出の地でもあります
この地に立つと遠い昔、青春時代の思い出がが蘇ってきましたね
この地に立つと遠い昔、青春時代の思い出がが蘇ってきましたね
0 件のコメント:
コメントを投稿