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2019年12月5日

書寫山圓教寺、奥の院・・・2019年紅葉巡り

2019年紅葉巡り、書寫山圓教寺、奥の院です
三之堂、食堂の右手から坂道下ると、奥の院エリア?です

左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻に会えますよ・・・


不動堂・・・江戸時代

延宝年中(1673~1681)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。
元禄十年(1697)堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂とした



護法堂(乙天社と若天社)国指定重要文化財 室町時代

性空上人が康保三年(966)当山で修行中、いつも傍らで仕えた乙天護法皇子と若天護法皇子をまつる祠である。
乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で、容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。
同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。
向かって右が乙天社、右が若天社



開山堂

圓教寺開山の性空上人をまつる堂。
書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。
現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作



奥之院 本尊開山性空悉地菩薩
寛弘四年(1007)延昭創建、弘安九年(1286)八月回禄
正應元年(1288)再建、寛文十一年(1671)造替今ノ堂ナリ


軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名




木鼻

木鼻、蟇股


この無残な姿・・・
このいたずら書きは、どのような心の持ち主なのか?
住所が書かれている・・・堂々としたものに、呆れかえる


坂道を・・・

食堂の背面・・・美しい!




下山します
その途中の史跡を・・・

薬師堂・・・兵庫県指定重要有形文化財

構造形式:正面一間、側面二間、宝形造、本瓦葺
根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。
寺記によれば、延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。
昭和53年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地に圓教寺創建以前、すでに何らかの宗教施設があったと推定されている


姫路城主・松平直基の墓所

松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)、もと出羽国の山形城にいましたが、1648年(慶安一年)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました
しかし、山形から移付の途中、江戸にて発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国の最乗寺に葬られました
のちになって、直基の子、直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書寫山に墓所をつくりました

映画「関ヶ原」撮影シーンと表示がありますね

鐘楼・・・国指定重要文化財、鎌倉時代
袴腰付で、腰組を持った正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。
形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。
寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元享四年(1?24)に再鋳とされる。
鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼としては県下最古の遺構であり、全国的にも極めて古いもおとして貴重である。
釣鐘は、兵庫県指定文化財で、市内では最古のつり鐘である

全体の写真を撮せませんでした・・・訳、20人ぐらいの方が取り囲んで昼食中だったので!

瑞光院

創建年代は不明、現存する圓教寺塔頭六院の一つである
摩尼殿のある中谷から三之堂のある西谷に向かう途次にあり紅葉の名所である


摩尼殿に戻ってきました
見上げれば、見事な紅葉・・・


ロープウェイで下山です

ちと、ロープウェイの側から、景色をパチリです

三部構成で、2019年紅葉巡り、書寫山圓教寺でした
書寫山圓教寺を訪れるのは、三度目です
こんな良き天候に恵まれ、紅葉もすばらしく、三之堂もゆっくり拝見できました
そして、左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻に会えました

開山堂では、心ない人のために、いやな思いを感じたのも事実です
文化財は大切にしましょう・・・





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