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2019年1月19日

尼崎市寺町を巡っています・・・善通寺・・兵庫県尼崎市寺町3

尼崎市寺町を巡っています
尼崎市寺町3・・・善通寺です

マップをみていると、寺院は、11ヶ所ありますね
尼崎城築城と共に進められたのが城下町、寺町の整備でした。
城を中心に東西に町場が整備され、東は今の大物から、西は貴布禰神社のあたりまでが城下町です


この通りは赤レンガで囲まれています


レンガ塀・・・私の撮影は失敗しました・・・で、Googleさんより引用です・・・(^^;)

山門



    平陽山 安谷院 善通寺 時宗


永禄年間(1558~70)、覚阿上人の開基と伝えられています。
総本山遊行寺の末寺ですが、宗祖一遍上人の遊行の地として尼崎は深く関わりがあります。
当寺は、時宗四条派大本山金蓮寺末三大寺の一寺としてたびたび法主を出した由緒ある寺院です。
本堂は宝永三年(1706)の大修理を受けていますが、移築当時の様式をそのまま伝えているようです。
寺内には秦歩文の碑が建てられています。後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐へ流されるとき、
秦歩文がお供をしました。妃を土佐に迎える途中、尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した・・・南朝方の忠臣秘話が伝えられています。・・・尼崎市教育委員会


本堂・・・


        南朝忠臣 秦歩文公遺碑


後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐へ流されるとき、秦歩文がお供をしました。妃を土佐に迎える途中、尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した・・・妃を連れた海賊が鳴門海峡へ向かっていると、突如嵐が起こり、うず潮とともに秦歩文が表れた。その姿に恐れをなした海賊は妃を小舟に乗せて開放し、妃は尊良親王との再開を果たすことが叶ったと伝わる






太閣秀吉ゆかりの寺、「広徳寺」

永禄年間(1558~70)再興・・・当寺は豊臣秀吉から寺領をもらったといわれています。徳川二代将軍秀忠の朱印状には寺領30石と記されている由緒ある寺院です。昭和20年6月の空襲により全焼しましたが本堂を再建し、紫衣を許された寺院としての格式を保っています。
天正十年(1582)秀吉が、明智光秀を追討するため、京都山崎へ向う途中、尼崎に着き、付近に禅寺を求めて休憩した話と、伏兵を避けるため逃げこんだ話とが伝わっています。
秀吉と尼崎の関係は絵本大功記十段目の「尼崎の役」として知られています。本尊は桧材の坐像で、かまくら時代の作とも、当寺創建ごろの明徳年間(1390~1394)の作ともいわれています。他に秀吉画像、朱印状、寺領目録などが残されています・・・尼崎市教育委員会





2019年1月14日

尼崎寺町七福神めぐり・・・本興寺・・兵庫県尼崎市開明町3-13

尼崎寺町七福神めぐり・・・尼崎市、寺町の中心的寺院・・・本興寺です
尼崎寺町七福神めぐりも、最後の七福神となります

山門

本堂

桁行五間、梁間六間。入母屋造り本瓦葺き。周囲に緑をめぐらし、東西十間、南北八間
文政五年(1822)に類焼。同十年四月一日再建



法華宗四大本山の一つで、応永27年(1420)日隆上人の開基した寺院。
開山堂・三光堂・方丈は室町・桃山時代のすぐれた建造物として国の重要文化財に指定されています。
開山堂の日隆上人坐像(重要文化財)は、生存中に堺の仏工浄伝に命じて作らせたと伝えられています


重要文化財 三光堂



もとは大物浦にあったものを元和六年(1620)現地にうつしたもので、拝殿は慶長ニ年(1597)豊臣秀吉、加藤清正の再建である。三光堂というのは、三光天子、鬼子母神、日本大小の神祇等の、法華経信徒守護の善神を祀る故名づけられた。
細部の手法甚だ巧みで、ことに草花彫刻をはめた蟇股や木鼻の絵様彫刻、欄間の透刻などは桃山時代の面目が躍動している。
その他の装飾にも、随所に精妙な毛彫を施した金具をはじめ、局彩色を施すなど善美をつくしている。
昭和27年、文部省によって解体修理、昭和60年に彩色の補修が行われた

拝殿



残念ながら、三光堂、社殿を見つけられなかった・・・再訪予定である


尼崎寺町七福神めぐり・・・財宝繁栄の福宝 大黒天
・・・法華宗 本門流大本山 寺町の中心的寺院・・・

             財宝繁栄の福宝 大黒天


祖師堂

宗祖日蓮大聖人の御尊像を奉安、脇座に両山歴代日登(三世)、日与(六世)、日諦(十一世)、日承(十二世)、日尭(十三世)、日○(十五世)、日庸(十八世)の各上人の木像が祀られている。文政五年(1822)に消失したが嘉永六年(1852)八十三世日量上人によって再建された・・




鐘楼・・・兵庫県指定重要文化財

桁行三間、梁行二間、入母屋造、本瓦葺の袴腰つき鐘楼で、東面中央に片引きの出入口を設けています。
上層では、腰長押と内法長押の間に連子窓を入れ、唐様木鼻つきの頭貫および台輪を納めて、和様二手先拳鼻つきの斗供をあげています。 中備は撥形の蓑束を配し、四隅では尾垂木を入れ、隅木との間に繰型の多い手挟みを飾っています。二軒 繁垂木、妻飾り叉首組、拝みに猪目懸魚をうつ。下層では、堅板張目板打ちの裾広がりの袴腰をつくり、上端に台輪をすえ、和様二手先斗供で目透かし板張りの縁をうけ、刎高欄をおき、中備には蓑束を飾る。この鐘楼は、「両山暦譜」によれば、寛永10年(1633)に竣工しており、古材の再利用や後世の修理も加わっていますが、本興寺では開山堂・三光堂・方丈に次いで古い建物です・・・尼崎市より


重要文化財 開山堂

この開山堂は、彫像として重要文化財である御開山日隆聖人の尊像を奉安し、文明元年(1469)の創建である。
構造は撞木造で、正面を入母屋造とし、前方に軒唐破風、後方に切り妻屋根を突出し、二重扇垂木の変化に富んだ形態である。
天井の龍画、桁行の鳳凰の彫刻は精巧を極め、その装飾の華麗なることは、当時の仏寺建築に於ける室内装飾の粋である。
建物の中央部は室町時代の光彩を遺し、その前後は桃山時代及び徳川時代初期の特徴を発揮している。
日隆聖人を崇敬し知慧を磨き、眼病を癒するため祈る人今もって旺んである。
昭和三十八年文化庁によって解体修理せられた。


天井の龍画、桁行の鳳凰の彫刻


方丈・・・国指定重要文化財

本堂の北側に位置し、桁行十間、梁間七間、入母屋造り、本瓦葺の建物で、前面に一間半の広縁(半間はのちに拡張)、東側に一間の広縁がめぐっています。
建立年代は天文17年(1544)の棟札が残されていることから元和に移築されたのではないかといわれていましたが、昭和56年の解体修理の調査で軸部に解体した形跡がないことが確認され、元和3年(1617)この地に移転した際の建築であることが棟札の存在とともに明らかになりました。
保存されている天文十三年の棟札はおそらく移転前に存在した建物のものと思われ、移転時に持ってきたものであろうと考えられています。
 平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では大きな被害を受け半解体修理を行いました

三重宝塔・霊廟壇

尼崎寺町七福神めぐり、全て巡って詣りました
尼崎城築城の際に整備された寺町寺院、そして神社・・・なかなか見応えがありました
もうすぐ、春になれば、尼崎復元天主も一般公開され、さらに賑わうことでしょう・・・

その時は、また、のんびり散策いたしたいと思います・・・




2019年1月13日

尼崎寺町七福神めぐり・・・常楽寺・・兵庫県尼崎市寺町1

尼崎寺町七福神めぐり・・・常楽寺です
・・・ 寺町突き当たりを北へ・・・歩きます
尼崎寺町七福神めぐりも、6ヶ所目です

山門?

    清閑山 普門院 常楽寺 浄土宗

寺伝によれば永正元年(1504)心誉浄雲上人による開基と伝えられています。
元和年間(1615~24)の尼崎城築城に際して大物の地より現在地に移されました。
寛永十二年(1635)には、戸田氏鉄が美濃大垣へ移封される際、大垣に分寺し、現在も同地に常楽寺として残っています。
現在の本堂は、平成4年(1992)に建立されました・・・尼崎市教育委員会


尼崎寺町七福神めぐり・・・長寿延命の福宝 壽老神
・・・常楽寺 清閑山 心誉浄雲上人より1504年創建・・・ 



              長寿延命の福宝 壽老神

       再建された本堂・・・お寺とは思えない建物ですね








2019年1月12日

尼崎寺町七福神めぐり+番外・・・甘露寺・・兵庫県尼崎市寺町6

尼崎寺町七福神めぐりですが・・・その道筋、寺町の寺院を訪ねます
尼崎、元気街ホームページには、寺町界隈、尼崎寺町七福神めぐりの案内PDFが掲載されています

尼崎寺町七福神の法園寺の東隣・・・甘露寺を訪ねます

法園寺側から空見上げると・・・金色の鳳凰が!

山門・・・
残念ながら、入ることはかないません

山門の蟇股
・・・なかなか見応えのある、彫物です

室町時代、円誉上人源永が開いたと伝えられています。本堂は貞享四年(1687)に15世寂誉上人によって中興され、江戸時代中期の質素で優雅な浄土堂が建立されましたが、平成3年(1991)旧本堂のイメ-ジをとどめて改築されました。
もとは大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転しました・・・尼崎市資料


境内、山門付近で掃除をされていた、恐らく住職さん・・・
・・・少し、お話ができました・・・
この寺町のお寺の内、五寺院が浄土宗・・・尼崎藩主の庇護のもとにと・・・
他の資料がないので、定かではありませんが、よくある話ですが・・・





2019年1月11日

尼崎寺町七福神めぐり・・・法園寺・・ 兵庫県尼崎市寺町5

尼崎寺町七福神めぐり・・・法園寺です
・・・ 東へ、寺町を歩きます
大覚寺の東隣が、法園寺となります(下:黒丸)

     山門

本堂



開基は天文年間(1532~55)、勝誉恵光法園上人と伝えられ、元和年間(1615~24)に寺町に移転しました。当寺には佐々成政の墓碑があります。成政は織田信長に仕え、猛将として名を馳せ、その功により越中守に任じられます。
本能寺の変後は、織田信雄(信長の次子)を奉じ天正十二年(1584)小牧長久手戦に参戦しますが敗れ、のち豊臣秀吉に属することになります。肥後守在任中、領地内で反乱がおこり、その責により幽閉され、天正十六年(1588)閏5月14日に切腹を命じられます。恨みの秀吉のいる大阪城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。
 寺宝として、後陽成天皇(1571~1617)直筆の和歌一首「なき人のかたみの雲やしぐるらん 夕の雨に途はみえねと」の掛軸や成政肖像画などがあります。特に山門の内に桐、外には菊の紋があり、由緒ある寺院を偲ばせています・・・尼崎市教育委員会


尼崎寺町七福神めぐり 
・・・浄土宗 恵光山 信長の重臣 佐々長政の墓碑がある

             家庭円満・子宝の福宝・・・布袋尊


佐々長政公生涯
・・・これ、すべて読むと歴史の流れがよ~く、分かります・・・
天文六年(1536)生まれ 天正十六年(1588)切腹 52年の波瀾万丈の人生ですね

     佐々長政公供養五輪塔
        ・・・実物は本堂内に保管されていると・・・

山門の内に桐の紋

山門の外には菊の紋








2019年1月10日

尼崎寺町七福神めぐり・・・大覚寺・・兵庫県尼崎市寺町9

尼崎寺町七福神めぐり・・・尼崎市、現存する最古の古刹、大覚寺です
・・・ 東へ、寺町を歩きます
長遠寺の東隣が、大覚寺となります(下:黒丸)

大覚寺
・・・五本の筋塀ですね・・・


尼崎寺町七福神めぐり・・・知恵・縁結びの福宝 辨財天 
・・・真言宗 月峯山 現存する尼崎最古の古刹・・・

            知恵・縁結びの福宝 辨財天

下、写真・・後方に見える紅色の建物のが、弁財堂・・写真がない?・撮り忘れです



本堂

現存する尼崎最古の古刹です。
本堂以下の建物は明治十年の大火で消失し、再建されたものです。寺伝によれば推古十三年(605)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長州の浦に作らせた寺と伝えられています。

月峯山大覚寺の開創は、南朝大覚寺統・亀山上皇、後宇多天皇の御世が始まった建治元年(1275)東大寺戒壇院円照上人の弟子、中興・琳海上人により能勢・剣尾山の月峯寺の遙拝所である、長洲の「灯炉堂」の地に開かれました。
南北朝時代には両朝の将師がそれぞれ当寺を本拠とし、足利二代将軍義詮などは半年にわたって在陣しました。元和年間尼崎城築城にあたって旧東本町から現在地に移転。
鎌倉時代の正和二年(1589)から天正十七年(1589)にいたる大覚寺文書は中世の尼崎を知る貴重な史料で、昭和42年県指定文化財に指定されました。・・・尼崎市教育委員会


尼崎寺町「大覚寺」・・常設舞台(写真下:右)
尼崎市寺町、大覚寺「大覚寺狂言」なるものがあります
2月3日の節分の日に開かれる「節分祭」では、境内で狂言が上演されます




     大覚寺芦刈からくり堂

大覚寺芦刈からくり堂縁起さまざまな文学に尼崎は登場しますが、その中のひとつに能楽「芦刈」があります。
能楽「芦刈」は、「難波の芦」にちなみ、平安文学の歌物語「大和物語」から取材して世阿弥が制作した能楽です・・・尼崎市より


薬師如来


表門・・・蟇股

木鼻

木鼻


現存する尼崎最古の古刹・・本堂以下の建物は明治十年の大火で消失し、再建されたもの
そして、平成7年の阪神・淡路大震災では一部建物が被害を受けて、再建、復興・・・
そんな境内の建物を拝見していると、尼崎最古の古刹という雰囲気は感じられませんが、それも致し方ないことです
そして、正和十年(1315)の大覺寺絵図が残されており、建立当時の様子がうかがえますと・・・見てみたいですね