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2015年11月9日

世界遺産、慈尊院・・紀伊半島、縦断のひとり旅・・和歌山県九度山町!

和歌山県、白浜町へ・・・先輩を訪ねるのが目的です・・・
しかし、白浜町へ出かけるなら・・いっそ、熊野やら、海沿いを走りたい・・・と!
では、どのように、「α君」と走るか?・・・結構、おおざっぱな計画を立てました・・・

なにせ、出来るだけ、未知の道を走りたい・・・いつものひとり旅の基本です!

で、今年、夏・・高野山を訪れました・・・その高野山へ登る道の麓で・・・・見逃しました!
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html

そう、世界遺産・・慈尊院、丹生官省符神社、丹生都比売神社なんです・・・

まずは、見逃した世界遺産を訪れ、そして、高野山へ登り・・・そして、高野龍神スカイラインを通り、和歌山県田辺市、白浜町へ・・
そんな、頭で描いた道順を組み立てました・・・それが、それが、なめていましたね、高野龍神スカイライン!・・・(^_^;)


まぁ、そんなこんなで、まずは、慈尊院から訪れます・・・

・・・慈尊院・・・和歌山県伊都郡九度山町にある真言宗の寺院・・女人高野と称されています!

世界遺産、慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄 関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。当時の慈尊院は、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失しました。
しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれたとのこと・・・

「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしておられました・・・慈尊院案内より引用

善通寺、2013年11月26日、訪れましたね・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2013/11/blog-post_1283.html

さぁ、参拝します・・・土壁が、すごい感じです・・築地塀の詳細は後述・・・


下乗石・・・門の左手にあります・・町指定文化財・・
・・・平安時代の法務権僧正定海により建立され、それぞれの門に下乗札がかかっており、皇族・貴族はここで籠を降りたとのこと・・・
平安時代の法務権僧正定海により建立されました。それぞれの門に下乗札がかかっており、皇族・貴族はここで籠を降りられた・・・と!

いつも思うのですが・・・千社札は、意味はわかるのですが・・見苦しいですね・・汚いです・・世界遺産が泣きますよ・・私感です
・・・剥がした跡も多く見受けられるが・・・!
寺院としては、どうなんでしょうかね? 許可出しているのですかね?
       

築地塀・北門・・・和歌山県指定文化財
この築地塀・北門 は紀伊続風土記や高野春秋などの古記録によれば、天文九年(1540年)の紀ノ川の氾濫洪水による旧慈尊院境内流失には既に建てられていたようである

築地塀は現在、三方延長116m、棟高2.9mと非常に大規模なもので、築地は砂味入りの粘土5~7cm程につき固め、何度も積み上げて屋根を葺くという特殊技法で造られている

北門は、切妻造・本瓦葺の四脚門で、親柱は円柱、控え柱は面取角柱からなり、頭貫木鼻、蟇股の形状から築地塀と同時期の建立とみられる

これらの遺構は様式や技法からみて16世紀の建立になり、築地塀は全国的にも珍しく、叉、高野政所としての歴史を知る貴重な遺構である
・・・説明板より引用



多宝塔と築地塀・・・


北門

弘法大師堂・・

弥勒堂・・・重要文化財
鎌倉時代後期の建築、桁行三間・梁間三間、一重、宝形造・檜皮葺

御母様が亡くなった後、弘法大師は御母様が篤く崇拝していらっしゃった弥勒菩薩座像と御母公像を安置するため、弥勒堂を建てられたと・・・
御本尊、弥勒菩薩座像は、国宝・・・平安時代
多宝塔・・・和歌山県指定文化財
この多宝塔は大規模な三間多宝塔である・・・

古記録に寛永元年(1624年)に塔が完成したと記されていて、竣工まで約百年の要したと考えられていた・・

室町時代後期の三重塔から江戸時代前期に多宝塔作り替えられたことが明らかになり、各時代の様式をよく示し他に類のない貴重な建造物とある

・・・一部省略・・説明板より引用・・
本堂・・



多宝塔の左側の石段が・・丹生官省符神社への参道があるとは・・・思ってもみませんでした!

では、丹生官省符神社へ参ります・・・

続きます・・・・


参拝日:11月5日











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