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2023年8月13日

大阪市顕彰史跡第204号、真田丸出城跡です

真田丸界隈を歩きましょう

三光神社からです
ここが社頭みたいです


真田山歩道橋

明星高校のフェンスです

真田丸顕彰碑
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍 の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、 戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県 九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に 九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや 否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城 に入城した。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、 出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長十九年 十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平 忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉に とった。
「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年 ~一七〇四年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸 跡」として明示されており、それによると現在の大阪 明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明ら かである。今はグラウンドになっているため、かつての 面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳 川方相手に大勝利を得たのである。

平成二十八年一月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園


心眼寺

大阪市顕彰史跡第204号
     真田丸出城跡(天王寺区餌差町)

慶長19 (1614) 年、大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が惣構の空堀南側に築いた曲輪で、三日月形をした形から偃月城とも呼ばれた。 冬の陣後の講和条件によって破却された。大阪市教育委員会

真田丸出城跡 (天王寺区餌差町)
豊臣秀吉が上町台地の北端部に築城した大坂城は難攻不落 の天下の名城として知られるが、 南方の天王寺方面からの防 備が不十分であった。 慶長19 (1614) 年の大坂冬の陣にあた り、豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した真田信 繁(幸村)は、この弱点に気付き、 現在の空堀商店街からJR 玉造駅方向に造られていた惣構の空堀の外側にあった 「笹山」 という小丘陵に出城を構え、 徳川勢の攻撃に備えた。
出城は東西200mほどの規模で、 三日月形をした外形の内部 が東西2つの曲輪からなり、 惣構の堀を土橋でまたいで大坂 城内と結ばれていたという。 真田信繁は、わずか3千人余り
の将兵でこの出城を守り、 徳川方の前田利常 井伊直孝・松平忠直らの攻撃を見事に撃退し、 豊臣方にとって冬の陣最大の戦果をあげた。



從五位下
真田左衛門佐豊臣信繁之墓

慶長二十年 五月七日於
摂州大坂討死 四十九歲

真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は源次郎、号は好白。
原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。十四年間、蟄居生活を送り、慶長十九年(一六一四) 豊臣方に参加した。
大坂冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本隊と戦い、徳川家康にも力尽き、越前共に安居神社付近で討ち取られたと伝えられる。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長二十年三月十九日付の書翰にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。
徳川時代中期にあたる十八世紀のなかばごろには、「幸村」の呼称が 流布していた。本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている。信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。
平成二十六年(二〇一四)十月吉日
真田山 心眼寺



大阪市顕彰史跡第204号・真田丸出城跡、真田丸顕彰碑をみてきました

この地で大坂冬の陣の激戦があったのですね






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