大阪市顕彰史跡第204号、真田丸出城跡(天王寺区餌差町)にある心眼寺
真田幸村の墓のそばに、京都見廻組、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎の墓があります
桂早之助利義は、天保十二年(一八四一)四月、代々京都所司代組の同心を務める家に生まれた、京都在住の幕臣である。剣術は西岡是心流を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めている。慶応三年(一八六七) 二月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、七月には肝煎 (小隊長クラス)に昇進した。
見廻組の主な任務は、新選組と同じく京都の治安を守ることにあるが、見廻組の方は、全て幕臣による組織である。
渡辺(邊)吉太郎は、天保十四年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。直心影流を学び、神奈川奉行支配組同心となった。その後、元治元年(一八六四)
には見廻組に推挙され、京都に来た。慶応年間の見廻組肝煎を列記した名簿に名が掲載されている。
高橋安次郎も、天保十三年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。高橋の名は、元治元年の見廻組名簿に記され、伍長を務めていた。
慶応三年十一月十五日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された。箱館戦争終結後、新政府に捕らえられた元見廻組肝煎 今井信郎の供述によると、見廻組与頭 佐々木只三郎を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃した。その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名がある。
慶応四年一月三日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦った。桂は下鳥羽で左股に銃創を受け、四日に戦死している。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られた。享年二十八歳。戒名は 「徳元院大誉忠愛義貫居士」である。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、五日に戦死、本寺に葬られた。享年二十六歳。墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しい。 高橋も五日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。享年二十七歳。「宝樹院 恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していたが、現在、墓石は残されていない。裏面には「慶応四年戊辰夭正月五日」と刻まれ ていたと伝わる。
参考文献>
「坂本龍馬を切った男 見廻組・桂早之助の履歴」
「戊辰之役東軍戦死者及殉難者人名」「桂早之助と京都見廻組」
「京都見廻組史録」 「実録 龍馬討殺」
大慶寺
木村蒹葭堂
肖像画は谷文晁筆とある(重要文化財)
木村蒹葭堂は元文元年(一七三六年)、現在の西区北堀江に誕生。 大坂の陣で勇名を馳せた後藤又兵衛の子孫と伝わる。 幼少より大岡春卜、柳沢淇園、片山北海池大雅、売茶翁、小野蘭山らに師事し、漢詩、 書画、本草学、物産学、儒学、 茶事などに精通。
優れた才能を発揮し、大坂を代表する博学者となった。
家業で酒造り(坪井屋)を営む傍ら、本草学者、文人、出版家でもあり、更に古今の珍しい書籍や地図、貝、石、茶道具などのコレクターとしても名をとどろかせた。
博物館のようであった居宅には、知識人が絶えず訪れ、その様子は約二四年間に渡り綴られた「蒹葭堂日記」に記されている。青木木米、伊藤若冲、上田秋成、太田南畝、司馬江漢 大典顕常、 頼山陽などもその一角である。 来訪者の記録は、彼が一大交流サロンの主であった証であるとともに、現代でも様々な研究に欠かせない資料となった。
享和二年(一八〇二年)正月二五日(太陽暦二月二七日)没。享年六七才。 当山に土葬。
戒名は、蒹葭堂巽磨孔恭世粛居士。墓碑は伊勢長島藩第五代藩主増山雪斎の撰。
生涯を通し、極めて広い分野で博識を有するだけでなく、いつも和顔愛語で温厚な 人柄も人を惹きつけたと思われる。当時には珍しい笑顔の肖像画がそれを物語り、多大なる業績より、現在「なにわの知の巨人」と称される。(山門左側)
【大阪市指定文化財 史跡】
振り返ってみれば、結構な勾配の坂ですね
この坂は「心眼時坂」
如意山甘露院 どんどろ大師 善福寺
あの有名な歌舞伎の一場面
お弓 おつる
歌舞伎(傾城阿波の鳴門)どんどろ大師前の場
とと様の名は 阿波十郎兵衛
エ、して かか様の名は アイ お弓と申します
高低差がよくわかりますね
真田丸の古地図にはこの付近は「カラホリ」と記されているようです
おそらく、その「カラホリ」が「空堀町」の名となったのでしょうかね?
今回歩いた場所です(小橋寺町筋、下から上に、掲載順不動)
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