与謝野町加悦伝統的建造物群保存地区を、ぶらぶら歩きながら、撮っていきましょう……
「丹後ちりめんとちりめん街道」
如悦は古来より絹織物の産地で、室町時代には武士のはかまに使用される厚手の「精好」、江戸時代前期には薄手の「撰糸」の産地として発展し、享保七年(1722)には加悦の手米屋小右衛門が、京都西陣より「ちりめん」の技術を導入しました。これにより、ちりめんは丹後に定着して「丹後ちりめん」として大きく発展していきます。
今日「ちりめん街道」と呼ばれる町並みは、織田信長の命により丹後を支配した細川幽斎の重臣、有吉立言が天正八年(1580)頃、加悦に安良城を構え、その南に加悦城下町を建設した際に、その町割の基礎が作られました。
その後、ちりめんの導入にともなって、町は織物の町となり、今日を迎えました。・・・案内書より引用
旧加悦町役場庁舎・・・京都府指定文化財
昭和4年宮津出身の大林組設計部長今林彦太郎の設計により建てられた木造総2階建て寄棟造り桟瓦葺きの建物で、東側中央に玄関車寄を設け、洋風印象を高め、当時の最新の技術と工法を用いた耐震性の高い建築物である。京都府指定文化財。
「P」があるのですが、工事中のため、別の場所に「P」することに・・・
「丹後ちりめんと町並み」
与謝野町如悦はの旧街道沿いの町並みは、通称「ちりめん街道」と呼ばれ、東西約240m、南北約630m、面積12.0haの範囲に約260棟の建物が軒をならべており「機音響く丹後ちりめんのまち」として国の73番目の細萱柵り、平成17年12籍に†機音響く丹後ちりめんのまちjとして国の73番目の重要伝統約建造物群保存地区に選定されました。地区にはちりめん商家・工場、洋館の医院、銀行、郵便局、酒蔵、旅館、役場などが残されかっての隆盛を今に伝えています。
江戸時代から加悦は与謝峠を介して京都と丹後を結ぶ物流の拠点として発展し、明治時代末に但馬から加悦に遠足にきた小学生が、その隆盛ぶりを目にして、「ここは日本か」と言ったそうです。
特に、明治時代から、鉄道が整備される和初期かけて、町並地区にはランプ屋、化粧品屋、牛肉屋、料理旅館、飲食店、人力車屋、菓子屋、床屋、帽子屋が軒を連ね、丹後地方から京都へ向けて出発するちりめん問屋の主人が人力車の乗り継ぎを行うなど、大変活気こ満ちていました・・・案内書より引用
・ 井筒屋旅館
昭和8年に再建された総2階平入りの建物で、旅館建築の玄関として堂々とした構えを見せ
ている。
街道沿いに唯一残る旅館である。
旧川嶋酒造酒蔵
昭和6年頃建てられたもので、終戦まで行われた酒造りの蔵には当時、精米の設備や酒樽が並んでいた。
当家は角地に建つ大規模な土蔵として目を引くだけでなく、酒造という生業と生活空間とを組み合わせた、昭和初期の建築として注目される
旧尾藤家住宅
江戸時代末期文久三年(1863)に建築された。
明治・大正期には蔵や座敷など増改築が行われ、昭和3年には11代尾藤庄蔵が念願の洋舘を大林組設計部長今林彦太郎の助言を受け建築した。京都府指定文化財。
下村家住宅
かって郵便局の使命を担っていたこともある街道筋で最も古い建物で主屋は文化元年(1804)、「座敷」棟は大正10年の建築である。街道表側には「機屋窓」と呼ばれる格子付き中敷居窓がある。
丸中
ちりめん街道が折れ曲がる南西角に位置することから屋号を「角屋」と称し、明治30年代、10代広吉が主屋を建てる。尾灯家とはよく似た間取りである
杉本治助住宅
縮緬発祥之地
西山工場主屋(ちりめん始祖)
明治29年から41年にかけて3棟の工場が建てられ加悦谷で最初のドイツ製の発動機、スイス製の力織機を導入した。
昭和2年の丹後大震災でほとんどのちりめん工場が被害を受けたが、丹後に現存する唯一の明治時代のちりめん工場である
杉本家住宅
高塀に接して2階の軒近くまで厚い壁が立ち上がっているのが目を惹く。
延焼防止の袖壁が肥大化したものであろうか。周辺でも類例のない構えである
杉本家住宅(西山第二工場)
明治後期の男性織子の宿舎
旧伊藤医院診療所
木造2階建て入母屋造り桟瓦葺きの洋館である。
大正6年頃、当地域では初の西洋医学の診療所として地域に貢献し、町の近代化の証として貴重な遺産であると同時に、ちりめん街道の町並みの中にあって景観を構成する重要な建築物である
加悦駅跡
加悦鉄道の廃線跡が自転車道に・・・
定番・・マンフォール
沢山の写真になりましたが、なかなか素敵な街並みでした
ちりめんの機織りの音が聞こえてくる所もありました
あいにくの曇り空で、残念でしたが・・・
ちりめん街道の寺社仏閣を、次回に・・・撮っていきましょう……!
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