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2017年3月14日

楠永神社・・・大阪市西区

靱公園をググって調べていると・・・その一文に「楠永神社」の文字がありました・・・
もちろん、神社仏閣巡りを主としている、私には、見逃すことはできません・・・(*^_^*)

待ち合せも終わり、再度、靱公園を横切り、西園に・・・その南東角へ・・・交番があります・・(注意)

うつぼ楠永神社とあります・・

・・・靱には古来、摂津国津村郷の産土神を祀る圓神祠と呼ばれる祠が存在した。圓神祠の具体的な場所は不明であるが、当社の近くであったとされる(元々同地は大阪湾が深く入り込んだ場所にあり、圓江と呼ばれていた・・神々は文禄三年(1594年)、現在の御霊神社に遷座している・・・


裏?公園側には朱の鳥居に・・・おおぉ‥見事な楠の木が・・・


樹齢は300年・・2011年の計測では幹周り4.3m・・・
   ・・・幹には注連縄が巻かれ、神木として祀られている


Wikipediaより引用・・・・
・・・戦後、占領軍が周辺の土地(現在の靱公園)を接収し、飛行場を建設。その際、飛行機の邪魔になるという事で楠を切り倒そうとしたが、「何かいわれがあるなら残してもいい」と市役所に告げていた。そこで楠の存続を求める住民が郷土史家の牧村史陽に助けを求めた・・しかし、牧村は調べたが分からなかったため、一計を案じ、以下のような話を作り上げた。

・・・この楠の根元には1匹の白蛇が巣くっており、ある日、塩干魚商の丁稚がこの蛇を棒でつついて追いまわした。するとその夜、丁稚は急に熱が出て寝込んでしまい、「巳(みい)さん(蛇の事)ごめん、巳さんごめん」と言いながら息を引き取った。楠の主の蛇をいじめたせいだという事で、地元では「巳さんの楠」と呼ぶようになり、祠を作って蛇を祀った・・・


そんな謂れがあったのですね!
靱公園・・・東西会わせれば、飛行場はゆうにできますね!!



靱海産物市場跡・・・

・・・江戸時代、この地には、干物や塩魚、鰹節など、生魚以外の海産物を売り買いする市場がありました
豊臣時代には、海産物の市場の一つで今の北浜のあたりにありましたが、江戸はじめ、元和四年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、元和八年(1622)には、この靱の地に移ってきました
海部堀川という水路が開かれ、人工的に造られた永代浜が荷揚げ用として使われ取引も増えて江戸時代を通して栄えました・・・案内板より引用



靱公園・・・ケヤキ並木、バラ公園、靱海産物市場跡、楠永神社・・・
そして、西園は、大部分を靱テニスセンターが占め、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われたとのこと・・・

いや! なかなかでしたね・・・靱公園・・・数十年、大阪で仕事してきましたが、全く知りませんでした・・・はい!!










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