極楽橋を渡り、内堀沿いを歩き、京橋口から、北外堀、東外堀沿いをテクテクと歩き、そう、堀、石垣巡りですね!
内堀沿いよりみる・・天守・・石垣、いいすね!
・・・この付近は、観光客、人が少ないで~す・・・
こま犬
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この一対の「こま犬」は中国・明の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3m、重さ約2.9tある。
日中戦争の最中に日本に運ばれ、当時陸軍第四団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府より改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。
以来このこま犬は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている・・・一部省略・・・ |
写真下、こま犬と天守閣・・・
西の丸の茶室豊松庵へ続く入り口?・・だが、右、こま犬の奥に女性が一人微動だにせず立っている・・
・・・近寄りがたい雰囲気だったので、遠目から・・・パチリです!!
京橋口から出て、北外堀へと向かいます・・・
京橋口枡形の巨石
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京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳33畳敷(54.17㎡)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大阪城再築時に、この区域の石垣築造担当した備前岡山藩主池田忠雄によって
運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36㎡)の場内第7位の巨石である |
この巨石を見る人も、観光客も、いなかったですね・・・(^^;) やはり、蛸石ですかね!!
京橋口
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大阪城の西北の出入り口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した |
正面に巨石が見える・・・
筋金門跡
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元和六年(1620)に開始された徳川幕府による大阪城再築工事では、同年の第一期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれた。
筋金門はその西の入り口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面へ通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。
門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る |
大阪砲兵工廠
橋本知事時代、ここをレストランにとの話がでたらしい・・・が?
鉄鉱石を溶かした後の塊らしい・・・と、公園掃除のおじさんが教えてくれました・・
北外堀
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大阪城二の丸の北に位置する水堀で、西が京橋口、東が青屋口である。もともと一続きの堀だった東外堀、北方の旧山地川(平野川)べりとともに元和六年(1620)、徳川幕府による大阪城再築第一期工事によって石垣が築かれ、幕府の命令により、因幡鳥取藩池田家、加賀金沢藩前田家、越前北庄藩(福井県)松平家などが工事を分担した。内側二の丸の西北にあたる石垣の隅には三層の伏見櫓が建っていたが、第二次大戦の空襲で焼失した |
左下、石垣が伏見櫓跡・・・
大阪城桃園・・・
ANA-JA830A Boeing-787-9 が着陸へと・・・おもわず、パチリ・・ピン甘です・・・(^^;)
青屋門
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青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋門はその
枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大阪城再築工事が開始された元和六年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍にて改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代は上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。 |
さらにその外側はかって水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大阪(石山)本願寺の寺町「青屋町」に由来すると考えられている
青屋門から天守閣を・・・
枡形内で、鷹匠? ・・・パチリです!!
東外堀
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大阪城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口で、南が玉造口である。元和六年(1620)に開始された徳川幕府による大阪城再築工事では、同年の第一期工事により、豊臣時代大阪城の堀跡に改めて石垣が築造された
。本来は青屋口より北外堀とつながっていて、総延長はあわせて約3km、幅は最大で約90mである。
幕府の命令によって動員された大名は加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩)松平家・土佐高知藩山内家など16ヶ家。
大正年間、大阪砲兵工廠の敷地拡張にともない北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀とつながらないままであるが、現在の姿に復元された |
梅林が石垣の上に見える・・・
ここから、トロッコ列車風?が、でているようです・・ね!
森ノ宮「P」へもどってきました・・・
今回、初めて、玉造口から梅林、極楽橋から天守へ、京橋口から、北外堀、青屋門から、東外堀と・・
大阪城、東半分を、テクテクと、歩きました・・・なんと、15425歩・・・
残すところは、西外堀、西の丸庭園・・・新緑か、青々した季節に、伺いましょうかね・・・(*^_^*)
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