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2023年8月21日

住吉高燈籠・・・ 江戸中期18世紀初めにたてられた日本最古の灯台です

住吉大社表参道から、南海住吉大社駅を通過して、国道26号線沿いに立つ高燈籠へと歩きます

しかし、暑いよ
だが、南海線の高架下は日陰
よ~く、見ると、その日陰の薄暗い中、燈籠が立ち並んでいるのです!

それは・・・
住友燈籠の記
古くからこの地を長峡と称し、海辺へ続くこの道は汐掛道と呼ばれていた。
ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にか 住吉大社正面参道である汐掛道に添って代々奉献されてきたものである。
江戸時代の大阪は日本における銅精錬・銅 貿易の中心地であり、その中核をなしたのが 住友家であった。銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、大阪で精錬され、 日本の経済を支えていた。
この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願っ 寄進されたが、長い年月を経て、一部は移築さ れ、また周辺の道路事情も変わったため、 地元住民の意向を受け、新たな考証に基づき に年代順に移転再配置した。
天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産 として、今後とも長く守り伝えて行かなければならない。
平成六年六月  財団法人 住吉名勝保存会


住吉公園の中を国道26号線まで歩いてきました
いや~ 遠いです
距離は200mぐらいか?
暑いから、余計に遠く感じられるのでしょうか?


       高燈籠


高燈籠は江戸中期18世紀初め、住吉浜辺にたてられた日本最古の灯台。
昔は現在地より200m程西にあった。昭和40年代、高速道路の建設で取り壊されたが、住吉名勝保存会の手により現在の地に昭和49年(1974)12月、精密に復元再建された。
高燈籠は底辺12mに石土台に二重やぐら、宝形づくりの屋根に露盤と宝珠がつけられ21mの高さがある。最上部に菜種油の灯をともし夜間航行の舟の目印となる灯台の役目を果たしていた。
寛政年間の摂津名所図会に「高燈籠 出身の浜にあり 夜走の船の極とす 闇夜に方角失ふ時 此の燈籠の灯殊に煌々と光鮮やかぞ」と記されている
高燈籠の公開日は第1、第3日曜のみである


       高燈籠脇に立つ常夜燈
        ・筑前廻船中
      
      その反対側の常夜燈
                     寛政六(1794)


大坂船問屋 石工 中村屋も確認できる


石造物を眺め、ぐるっと一周し、刻銘を探すことが好きな私にとって、この住吉大社の石燈籠群は、なぜもっと早く来なかったのかと、思っています
住吉大社の本殿が国宝、有名な反橋は知ってはいましたが、石燈籠群のことは知りませんでした
まぁ、仕事で、走り回っていたときはそんな余裕もなく・・・
まぁ、今回はよかったです

また、涼しくなって、歩き回れる季節になったら、見残している重要文化財、パワースポットなどを巡りたいとおもいます


お見事でした












2023年8月19日

住吉大社、第二回目です、重要文化財・パワースポットおよび摂社です

住吉大社、第二弾、重要文化財、パワースポットおよび、摂社です

反橋の上から・・・

第三本殿前に・・・

住吉大社の神使
 貴石 撫でうさぎ 五体を撫でて無病息災を祈る




若宮八幡宮
・・・角柱の鳥居です

五所御前の南側に西面して鎮座する若宮八幡宮は、第四本宮の祭神である神功皇后の御子にあたる応神天皇(八幡神)をお祀りする神社です。
住吉大神降臨の地である五所御前に隣接して鎮座していることや、若宮と称することは、神功皇后と応神天皇との関係をみたものであると思われます。
例祭は1月12日で、祭典時には特殊神事である湯立神楽が奉納されます。扉絵には、松と八幡神使である白鳩が描かれています。
祭神
・誉田別尊 (応神天皇)
・武内宿禰
・・・住吉神社より



神蹟 五所御前


五所御前は、別名を高天原ともいい、住吉大神降臨の伝承地である。
社伝によれば、神功皇后の摂政十一年辛卯年(西暦二二一年)、勅命を奉じた田裳見宿祢(住吉神主の始祖)が、大神の神殿を建立すべき処を求めた際、「真住吉 住吉国」(清らかな海に面した、安住の地の意)との神託を得て当地を選定し、その地の大樹に白鷺が飛来して、あたかも歓喜、賞賛するかの様子であったため、住吉大神の御心に叶った処として当社の鎮座地を定めたものと伝えられる。
後に四つの神殿を造営した後も、元の大樹に注連縄を張り、忌垣を設けて、祭祀を行ったものと伝えられる。この故実に倣い、当社の御鎮座を奉祝する
卯之葉神事(五月初卯日)では、当所に神鏡を懸け、卵の葉の玉串を捧げて拝礼する。
そのため、四神殿に准じた神蹟として五所御前と呼称される。
 

「五大力の神石」
御垣内の玉砂利の中には「五」「大」「力」の各文字が記された石があり、参詣者が自身の手によって探し出し、三つを揃えて願掛けの御守にする習俗が伝えられる。
五つの力とは、体力・智力・財力・福力・寿力であり、住吉大神の広大無辺 なるご守護を象徴する。
願いが成就した際、同様の小石を用意し、感謝の念を込めて文字をしたため御礼参りの時に倍に増やしてお返しする。 神石を増やして循環させることで 末広がりに幸福がもたらされる信仰である。
御守袋は本宮授与所又は楠社にて取り扱っております。 住吉大社



住吉の五大力

住吉大社の第一本宮の南に五所御前とよばれる場所があり、住吉大神を最初にお祀りした聖地と言い伝えられています。 社伝によれば、神功皇后が、住吉大神をお祀りすべき地を定めよと見廻りをなされた時、この地の大樹に白鷺が飛来して歓喜の様をあらわしたといい、この奇瑞によって、当地が大神の御心に叶う処であろうと思し召して、社地を定められたと伝えられ、その場所が五所御前にあたるといいます。
古くから聖地として信仰され、卯之葉神事では神饌や玉串がささげられてお祀りされています
いつしか垣内の玉砂利から、小石を探し出してお守りにする習俗が起りました。 やがて五所御前の信仰は、住吉神宮寺の五大力尊の信仰と習合して、今日にみる五大力となったようです。
五所御前の玉砂利のなかから「五」「大」「カ」の三種類の字 が記された石をさがし集め、参詣者自身がそれを御守にします。 五つの力については、体力・ 智力・財力・福力・寿力を授け るものと説明されますが、御守 にすれば心願成就の神徳がある とされます。




石舞台(国の重要文化財)
上:南中門に向いて・・・

下:南門に向いて・・・


石舞台は今から約400年前、豊臣秀頼公によって寄進されたものです。
四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台と称され、国の重要文化財に指定されています



誕生石

丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経によって難を逃れ、摂津住吉に至った。
このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導いてゆき、 社頭に至った時には局が産気づいた。本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。
これを知った住吉の神人田中光宗は産湯を出して湯薬をすすめて介抱し保護したという。
是を知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隈ニヶ国をあてられた。 これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。 この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ、「誕生石」の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。・・・案内板より

左橋の絵から・・・
住吉名勝図会によれば、丹後局は誕生石を抱いて男子を出産、本田次郎は住吉明神に安産を祈る


  島津家・仙厳閣の名入り、丸に十の字の島津家の紋ですね

丹後局って・・・
平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。後白河天皇の側室となり権勢を振るう
平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源頼朝の乳母・比企尼の娘で、島津忠久を産んだという・・・Wikipediaより

諸説ありそうですね・・・



大歳神社
・鳥居には、文化七(1810)
・石灯籠は、文政五(1822)
と、年号がある


手水鉢

大歳社

おいとしぼし社

おもかる石の占い方

先ず 二拝ニ礼一拝でお参りする
次に  霊石を持ち上げ、重さを覚えておく
次に  霊石に手を添えて、願いごとをする
次に  もう一度、石を持ち上げる

軽い=かなう
重い=好転へ努力

先ず 二拝ニ礼一拝で退出

2回目に持ち上げた方が軽く感じればその願いは叶うということらしいですが・・・


当然、真ん中の霊石で占いましたが・・・残念ながら、私は重かった!!
邪心で、心の迷いを見透かされているようですなぁ!




官幣大社 住吉神社 境外末社 淺澤神社

浅沢の杜若

住吉の浅沢小野の杜若
衣に摺りつけ着む日知らずも  万葉集

その昔、ここから南にかけては清水の湧く大きな池沼があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢・京都の大沢と並ぶ近畿の名勝であった。
とくに住吉の浅沢は杜若が美しく咲き乱れ、人たちに愛され、万葉集をはじめとする多くの歌集にその名をとどめている。
しかし、昭和に入って「忘水」と称された付近の清水も枯れ、一時は杜若に代わって明治神宮の花菖蒲が移植されていたが、地元の強い要請を受け、平成九年(一九九七)細江川改修の一貫として浅沢に新しい水脈を加え、各地の原種の杜若を集めて、「住吉区の花」の由来となる浅沢の杜若を復活させて保護、育成している。
いにしえを偲ぶ市民の憩いの場として、この名勝を永く守り伝えてゆきたい。
(公財)住吉名勝保存会



鳥居、右柱に「文政八年」1825年とある

        浅沢の池に立つ「常夜灯」



住吉大社 南門
住吉大社のパワースポットを知っている知人から教えてもらい、おもかる石の占いに挑戦してみましたが・・・

2回目に持ち上げた方が軽く感じればその願いは叶うということらしいですが・・・
残念ながら、私は重かった!!




住吉のいわれとまちなみ
奈良時代に編纂された「摂津国風土記」 には、「昔、 息長足比売 (おきなが たらしひめ : 神功皇后) の世に住吉の大神が出現して住むべき国を探し求めて 天下を巡りこの地 (住吉) に至った時、 これぞ、 まことに住むべき国なり、といい、「真住み吉し、 住吉の国」 といって神の地と定めた」 と、 住吉と呼ばれ た由縁が書かれています。
住吉は古代より海上交通 外交のための港と、海上守護をつかさどる住吉大 社を中心に栄えました。 上町台地の南寄りに位置し、 西側は北方にくらべ急な 崖が少なく、 住吉大社の南にあった細江川 (細井川)の河口の入江が "住吉の 津" であったと考えられています。
また、 自然美あふれる素晴らしいところで、 行楽をかねて参詣に訪れる公家 や文化人がこの地で和歌を詠み、 万葉集にも”あられ打つあられ松原住吉の弟 日姫と見とれど飽かぬかも”という歌が残されています。
中世には、「蟻の熊野詣」 といわれるほど賑わった熊野参詣の道筋である熊 野街道や紀州街道の交通の要衝として発展し、大勢の人達がこの地を訪れました。 また、遠里小野の荏胡麻 (エゴマ) 油や我孫子鋳物師(いもじ)など金属 加工産業で栄えました。
江戸時代には、紀州街道によって堺との流通もよく商業活動が活発になるとともに、商業的農業や商工業が発達しました。
近代になって、 日東蓄音機 (レコード)、摂津酒造、 だんつう業(もうせん・ じゅうたん等)などの先駆的な産業が生まれました。 さらに、交通面においても、明治18年に難波-大和川間に鉄道が開設されるなど、 近代化が進みました。 このように、住吉のまちなみから、 往時の産業・商業活動の活発さ、神社や お寺など、地域の人々とともに歩んできた住吉の歴史を伺うことができます。

住吉大社周辺地区HOPE (ホープ)ゾーン事業
住吉大社周辺は、数多くの有名な社寺が存在し、街道沿いを中心に伝統的な まちなみが残り、木々の緑にも恵まれた歴史と文化豊かな地域です。
そこで、地域のみなさんと大阪市が協働して、このすばらしい資源を活用し、 地域の特色を活かした居住地づくりを進めているのが 「住吉大社周辺地区 HOPE (ホープ) ゾーン事業」です。
本事業により、伝統的な町家の改修などでまちなみが整備され、地域コミュ ニティ活動の中心となる公園や広場、 集会施設も整備されました。・・・案内板より



追記:文中、文言は案内板より引用いたしました










2020年11月10日

大阪天満宮 鉾流斎場・・・大阪市北区西天満1-13-4

中之島公会堂を訪れる際、「P」を探していましたら、こんなところに鳥居が・・・
ここは、なんなのでしょうか?

立派な石燈籠には、天満宮とある
そうなれば、この付近では、大阪天満宮ですね 
直線距離にして、約700m
この石燈籠の前で、スマホにて、ググってみました


大阪天満宮 鉾流斎場と判明


鉾流神事が・・・
天暦五年(951年)、社頭の浜から神鉾を流し、その漂着地を斎場と定め御神霊をお移しし「禊」を行いました。
その際に、神領地や崇敬者が船を仕立て御神霊を奉迎したのが天神祭の起源とされています。
寛永年間以降は常設の祭場(御旅所)が設けられ、鉾を流す必要がなくなり長らく途絶えていましたが、昭和5年に復活し、今も続いている重要な神事です。

毎年、天神祭宵宮(7月24日)の朝、巫女の舞などによる水無月祓の神事を行った後、神童、神職、楽人が乗った斎船が鉾流橋の斎場から堂島川の中ほどに漕ぎ出されます。
天神祭では鉾流神事に使うこの小舟のことを斎船といっています。
この船の上から神童の手によって神鉾が流され、ご神意をおうかがいすることによって天神祭の幕が上がるのです。
なお例年、祭典中に型代(かたしろ)を薦に包み神鉾と共に川へ流していましたが、2009年からは水溶性素材を用いて奉製した型代(人形)を直接川中に流すこととなりました。・・・天神祭サイトより引用



鳥居から眺めれば、天満警察署 
写真にはありませんが、左は大阪地方裁判所
最高?の立地ですね

堂島川 かかっている橋の名は、「鉾流橋」その橋の上から、パチリです

大阪天満宮 鉾流斎場 そして天神祭の鉾流神事、全然知りませんでした

天神祭はTV放送で拝見するだけでした
いやいや、ホント、お恥ずかしいかぎりです










2017年3月14日

楠永神社・・・大阪市西区

靱公園をググって調べていると・・・その一文に「楠永神社」の文字がありました・・・
もちろん、神社仏閣巡りを主としている、私には、見逃すことはできません・・・(*^_^*)

待ち合せも終わり、再度、靱公園を横切り、西園に・・・その南東角へ・・・交番があります・・(注意)

うつぼ楠永神社とあります・・

・・・靱には古来、摂津国津村郷の産土神を祀る圓神祠と呼ばれる祠が存在した。圓神祠の具体的な場所は不明であるが、当社の近くであったとされる(元々同地は大阪湾が深く入り込んだ場所にあり、圓江と呼ばれていた・・神々は文禄三年(1594年)、現在の御霊神社に遷座している・・・


裏?公園側には朱の鳥居に・・・おおぉ‥見事な楠の木が・・・


樹齢は300年・・2011年の計測では幹周り4.3m・・・
   ・・・幹には注連縄が巻かれ、神木として祀られている


Wikipediaより引用・・・・
・・・戦後、占領軍が周辺の土地(現在の靱公園)を接収し、飛行場を建設。その際、飛行機の邪魔になるという事で楠を切り倒そうとしたが、「何かいわれがあるなら残してもいい」と市役所に告げていた。そこで楠の存続を求める住民が郷土史家の牧村史陽に助けを求めた・・しかし、牧村は調べたが分からなかったため、一計を案じ、以下のような話を作り上げた。

・・・この楠の根元には1匹の白蛇が巣くっており、ある日、塩干魚商の丁稚がこの蛇を棒でつついて追いまわした。するとその夜、丁稚は急に熱が出て寝込んでしまい、「巳(みい)さん(蛇の事)ごめん、巳さんごめん」と言いながら息を引き取った。楠の主の蛇をいじめたせいだという事で、地元では「巳さんの楠」と呼ぶようになり、祠を作って蛇を祀った・・・


そんな謂れがあったのですね!
靱公園・・・東西会わせれば、飛行場はゆうにできますね!!



靱海産物市場跡・・・

・・・江戸時代、この地には、干物や塩魚、鰹節など、生魚以外の海産物を売り買いする市場がありました
豊臣時代には、海産物の市場の一つで今の北浜のあたりにありましたが、江戸はじめ、元和四年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、元和八年(1622)には、この靱の地に移ってきました
海部堀川という水路が開かれ、人工的に造られた永代浜が荷揚げ用として使われ取引も増えて江戸時代を通して栄えました・・・案内板より引用



靱公園・・・ケヤキ並木、バラ公園、靱海産物市場跡、楠永神社・・・
そして、西園は、大部分を靱テニスセンターが占め、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われたとのこと・・・

いや! なかなかでしたね・・・靱公園・・・数十年、大阪で仕事してきましたが、全く知りませんでした・・・はい!!










2016年8月27日

大阪天満宮・・・大阪市北区天神橋二丁目

所用で、大阪市北区天神橋の大阪天満宮に参りました・・・そう、あの天神祭りの天神さんです!
でも、神社となれば・・・所要とは、別に、そこは、いつもの、彫り物を探す、私がいます・・・(*^_^*)

大阪天満宮・・・大門です
・・・・菅公会 天神踊の横断幕がありますね・・・
大門を見上げれば・・おおぉ、大注連縄・・・その後ろに、十二支を描いた方位盤が・・
十二支を描いた方位盤・・・
良く見ると、「酉」にあたる部分が通常は鶏なのに対し、天神さんでは「鳳凰」になっているのです!祭神である道真が道明寺で鶏の鳴き声によって出立を急かされたという故事にちなみ、鶏は避ける習わしになっているのだそうです・・・引用
大注連縄・・・御神退千百年祭記念奉納とあります 
その横の畳二畳ほどの欄間に鳳凰の彫り物・・・お見事!・・・「桐に鳳凰」とあります
左側の欄間の彫り物も、鳳凰・・
正面は拝殿・・・右手は手水舎・・
参拝します・・・
・・・拝殿・・・豪華で、厳かな佇まい・・・さすが、大阪天満宮です
・・・奥の梁の上の彫り物・・・う~ん? 残念、写りません・・・今日は、SONY-RX100
拝殿の見事な龍・・・彫師は相野一門、相野藤七と思われると・・・
木鼻、手挟み・・
手挟みはボタンか?
手水舎の欄間?の彫り物・・梅と思われるが、金網が新しく、中がよく見えない・・・

SONY-RX100に関する先人の教えで・・・・
・・・RX100のモードをA(絞り優先)に、絞りを一番開いた状態にして撮ります、しかし、カメラ任せだとF4.0・・それを、F1.8にするのです・・すると、手前の網がぼけてしまって、気にならなくなる・・・これが被写界深度のコントロールです
・・と、あるのですが、現場では、思い出せなかった・・次回、遭遇すれば、試してみようか?
先人の教えの網は、金網ではなかったのだが・・・・(^_^;)
天神踊 菅公会の舞台・・・終わったのかなぁ?何時なんだろうか?


境内をゆっくり、拝見できる時間はありませんでした・・・残念!

実は、2013年3月・・・「α君」の点検の折、チャリ乗って・・大阪天満宮へ参拝いたしました・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2013/03/blog-post_14.html

その時点は、彫り物には、興味がなく・・・漠然とした、参拝でした・・
いまは、まず・・・彫り物を探している私がいますね・・・(*^_^*)

25年余り、仕事場が大阪市北区でしたが、天神祭り、造幣局の桜通抜け・・行ったことないし、観たことがありません・・(*^_^*)

仕事場では、そんなものでしょうね・・・

又、時間をみて、伺いましょう・・・