数十年ぶりに訪れた、大阪城梅林・・・ちと、遅かったですが、いやいや、美しい梅の花でした!!
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2017/03/blog-post_17.html
梅林は、図、下の白丸、極楽橋は上の白丸・・・
内堀沿いに天守を左手に見ながら、ブラブラと・・・極楽橋へ・・・
内堀
なにやら、船がいるぞ!!
・・・・因みに、料金は、大人一人、1500円・・・う~ん?
極楽橋の右手前に青屋門があります・・・ここは後ほど・・ね!
極楽橋・・・が、見えてきました・・
極楽橋・・・
山里丸
秀頼・淀殿ら自刃の地・・・
慶長二十年(元和元年、1615)の大阪夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた秀頼とその母淀殿が山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている 。それにちなんで、平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた
刻印石広場・・・
山里丸石垣の機銃掃射痕・・・
・・・昭和20年(1945)三月から終戦前日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほか爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ北側内堀に面した石垣も数カ所ひずんだが、現在は修復されている
本丸と山里丸を結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大阪城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための石組み囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出ていることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。 なお西は埋門となっていて隠し曲輪と通じている |
西の埋門となっている隠し曲輪・・・
天守下仕切門跡
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路とことなった箇所の門を仕切り門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため、両脇の石垣を行き違いとし、そのため門は東を向いていた。徳川幕府による大阪城再築時に築かれ明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。 |
梅林から、内堀沿いに歩き、極楽橋より場内へ・・・
秀頼、淀殿の自刃の地・・拝見いたしました・・・そこは、家族のくつろぎの場 として使われていた山里丸で最後を迎えたのですね・・・
そして、山里丸石垣の機銃掃射痕も初めてしりました・・・
いや、なかなかのルートでした!
さて、極楽橋から、京橋口へと向かいます・・・・
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