現存十二天守「松山城」本壇を巡ってきました
まぁ、重要文化財の建物が多く、全て写真に収めてつもりが、これ、何処?って感じになってしまいました
さぁ、次なるコースは、本壇周辺を一廻りいたします
配布パンフより |
松山城 本壇 配置図
松山城本壇は、天守を中心とする城郭建造物群の中枢です。本壇人口から天守広場までは、一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門が設けられ、それぞれに塀と櫓を伴っています。 一ノ門から二ノ門までの石垣や櫓で囲まれた空間には30を越える侠間が備えられ、最終防御施設として厳重な構えとなっています。
本壇内の西では、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り囲み、それらは十間廊下などの渡櫓で連結されており、姫路と同じ連立式の建築形式となっています。本壇外周の石垣は、巧みに屈曲を鑠りし出隅に櫓が配され、東面と西面の石垣は、城壁の中央を内側に折り曲げ防御性の高い「合横矢」と呼ばれる石垣になっています。また、ここでは、石垣の改修を確認でき、北は打込ハギ、南は切込ハギで、年代の異なる特徴を示しています。
天守
艮門、同東続櫓
艮門と同東続櫓は、本九の北東(艮方向)に配された脇戸付の櫓門とニ重櫓で、城の東側の防衛を担っています。また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割も担っていたと考えられます。創定時期はわかりませんが、明治時代に取り壌されたようで、昭和59年(1984年)3月に復元されました
天守最上層よりみた、艮門、同東続櫓
天守最上層よりみた、艮門、同東続櫓
艮門、同東続櫓
下りてみました
乾櫓・野原櫓
乾櫓は、本九の北西(乾方向)に配置された矩折の重櫓で、防衛する重要な櫓です。
太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装定築の手法がみられます
この櫓は、慶長年問(1596~1615)に正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられています。これに関する確実な資料はありませんが、城内最古の建造物の一つと考えられています。幕末までに何回かの修理が行われ、その年代を示す資料としては、明和6年(1769)と墨書された棟札があります。昭和10年(1935)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました
野原櫓は本丸の北に配されたニ重櫓で、小筒櫓とともに城の北側に対してして防衛を担う櫓です。太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装定築の手法がみられます。人母屋造の屋根の上に、物見を載せた望楼型ニ重櫓で、全国で唯一の現存事例です。
望楼型の櫓が発展して天守が生まれたとする天守望楼起源説を裏付ける資料として注目されます。この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、慶長年間(1596~1615 年)の築城時に建てられたと伝えられており、城内最古の建造物の一つと考えられています。幕末までに何回かの修理が行われ、その年代を示す資料としては、文化14年(1817年)と墨書された懸魚(裏)、文政元年(1818年)と墨書された悚札があります。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました
乾門
乾櫓
左から北隅櫓、十間廊下、南隅櫓(登録有形文化財)
重要文化財 紫竹門
紫竹門は、本九の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北にあった中仕切門とあわせ、搦手を固める重要な門です。門の両側には、それぞれ紫竹門東塀と同西塀が接続し、搦手に備えるため北を正面としています。門の前面、小天守下に紫竹が植えられてことからこの名が付けられ、また扉の上下は竪格子となっており、そこから外を巍き見る工夫がなされています。創建時期はわかりませんが、紫竹門東塀並びに同西塀とともに、天明4(1784)年の落雷で天守とともに焼失し、嘉永年間(1848~1854年)に再建されたと考えられています。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
松山城・・・
日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。
その松山城、別名金亀城、勝山城とよばれますが、やはり、松山城と呼ぶのがいいですね
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