ロープウェイを使い、標高132mの勝山山頂に本丸を目指してやってきました
四国、お城巡りの旅 現存十二天守「松山城」天守へ登ります
じつは、松山城は、二度目です
友人たちと、この券売所の前まで来て、天守を見上げて、Uターンして下りましたね
何しにきたのかなぁ?
と、何十年前の思い出が思い出されます
GoogleMapの松山城です
見事な三重の連立式天守の姿がこのように手軽にみえるなんて凄い時代です
本壇
正面:これより天守閣へ
左:小天守 右:一の門南櫓
天守 「丸に三つ葉葵」葵の紋
一の門
一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で、二ノ門との間は枡形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。
重要文化財 ニノ門
重要文化財 三ノ門
玄関・玄関多門櫓 奥は北隅櫓
天守内部へ・・・
重要文化財 仕切門内塀
仕切門から北、次いで西に伸び、さらに南に折れ曲がって玄関多聞櫓に達する渡塀わたりべいで、本壇の北側石垣に臨む。その東面は、本壇上の天神櫓前の空地を、北面は直下の本丸空地及びその下の山林を、西面は、北隅櫓下の石垣に横矢掛りを見せるなど多様な射界を持つ。また、仕切門の北側で広場側に突出した懐をもち、天神櫓を支援する火力配備の備えとする。延長24.56m、狭間19か所、石落し隅部1か所、平1か所、本瓦葺である。壁は一の門東塀と同様で、外側を下見板張り、内側を漆喰塗とする。建物は嘉永年間(1848年~1853年)の再建と考えられる。
本丸広場を望む
玄関多門櫓
重要文化財 仕切門
松山城の紋章
懸魚松山城の唐破風屋根の下に垂らしていた妻飾りの一つ。嘉永期再建時のものか。懸魚は寺院建築で「水をかける」の意で魚形の飾りを屋根に懸け、火難除けとしたのが始まりといわれる。特に横に長い形のものは、「兎の毛通し(うのけどおし)」と呼ばれている。
左下:天守鯱難形
さぁ、最上層へ・・・
最上層です・・・たくさんの人たちです
天守最上層の床の間
よき眺めです
艮門、同東続櫓
左から南隅櫓*、十間廊下*、北隅櫓*、手前は玄関多門櫓
GoogleMapの松山城です
見事な三重の連立式天守の姿がこのように手軽にみえるなんて凄い時代です
GoogleMapより引用 |
本壇
正面:これより天守閣へ
左:小天守 右:一の門南櫓
天守 「丸に三つ葉葵」葵の紋
一の門
一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で、二ノ門との間は枡形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。
重要文化財 ニノ門
本壇における第ニ番目の門て、薬医門の形を持つ。天守・三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。天明四(一七八四)年雷火のため天守どどもに焼失し、嘉永五(一八五ニ)年に再建された。昭和十年国宝に指定されたが、同ニ十五年法の改正により重要文化財となった
重要文化財 三ノ門
本壇における第三番日の門で高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓・天守から射撃ざれる構えとなっている。天明四 (一七八四)年雷火のため天守どどもに焼失し、嘉永五(一八五ニ)年に再建さ昭和十年国宝に指定されたが、同ニ十五年法の改正には重要文化財となった
玄関・玄関多門櫓 奥は北隅櫓
玄関多聞櫓は、北隅櫓の東側、内門の西側に接続する一重多聞櫓で、南面に玄関が接続する。小天守と同様に、昭和8年(1933)の放火により焼失したものを、昭和43年(1968)5 月27日竣工で復元したもの。外観は、簓子下見板張ささらこしたみいたばり、軒裏までの漆喰塗籠しっくいぬりごめで、北面中央に庇付の石落しを備える。
内部は、南側が一間幅の廊下を通し、北側は舞良戸まいらどで仕切られ 一室となる。 天守玄関部の構成を示す。
天守内部へ・・・
重要文化財 仕切門内塀
仕切門から北、次いで西に伸び、さらに南に折れ曲がって玄関多聞櫓に達する渡塀わたりべいで、本壇の北側石垣に臨む。その東面は、本壇上の天神櫓前の空地を、北面は直下の本丸空地及びその下の山林を、西面は、北隅櫓下の石垣に横矢掛りを見せるなど多様な射界を持つ。また、仕切門の北側で広場側に突出した懐をもち、天神櫓を支援する火力配備の備えとする。延長24.56m、狭間19か所、石落し隅部1か所、平1か所、本瓦葺である。壁は一の門東塀と同様で、外側を下見板張り、内側を漆喰塗とする。建物は嘉永年間(1848年~1853年)の再建と考えられる。
本丸広場を望む
玄関多門櫓
重要文化財 仕切門
脇戸附の高麗門であって天守の北側に位置し、内門との間が桝形となっている。天守・玄関多聞櫓によって防衛される仕組みてある。天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、嘉永五(一八五ニ)年まてに再建されたどみられる。昭和十年国宝に指定されたが、同ニ十五年法の改正によリ重要文化財となった
松山城の紋章
松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍、徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」(三つ葉左葵巴)となっています。
松山城の築城に着手したのは、西国大名であった加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。そして、1635年に松平定行が城主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。定行は本壇を改築し、三重の連立式天守を築造しましたが、1784年の落雷で焼失。その後、1852年に再建されました。
これが今の松山城天守で、現存12天守の中では、唯一、親藩(松平氏)が建築し、「丸に三つ葉葵」(通称:葵の御紋)が付された城郭となっており、わが国最後の完全な城郭建築である天守は、黒船来航の前年に再建されたことになります。
松山藩の松平家は、明治政府より旧姓である久松(家紋は星梅鉢)を名乗るように命じられ、華族に列せられた後、1923年(大正12年)に松山城を松山市へ寄贈しました。
懸魚懸魚松山城の唐破風屋根の下に垂らしていた妻飾りの一つ。嘉永期再建時のものか。懸魚は寺院建築で「水をかける」の意で魚形の飾りを屋根に懸け、火難除けとしたのが始まりといわれる。特に横に長い形のものは、「兎の毛通し(うのけどおし)」と呼ばれている。
左下:天守鯱難形
松山城天守の鯱の雛形。寛永期(1848-1852)の天守再建時、天守に載せる鯱の形が決まらず、三都の焼物師に雛形を製作させ、京都清水から取りせたこの雛形を原型として天守鯱瓦は製作されたという。この形は現在の鯱瓦皺にも引き継がれている。
さぁ、最上層へ・・・
最上層です・・・たくさんの人たちです
天守最上層の床の間
よき眺めです
艮門、同東続櫓
左から南隅櫓*、十間廊下*、北隅櫓*、手前は玄関多門櫓
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