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2023年3月5日

たんば黎明館にて開催された、企画展「中井権次と柏原藩」講演会に行ってきました

「中井権次と柏原藩」と、題しまして講演会が開かれました(下、赤枠)
もちろん、事前予約で申し込んでおります


場所は、たんば黎明館 2階多目的ホールです
たんば黎明館は、県指定文化財 旧氷上高等小学校校舎なのです



県指定文化財 旧氷上高等小学校校舎 附 棟札、門、柵
明治18年(1885)に現在地で建設された。 その 後氷上第一高等小学校、郡立柏原病院の建物となり、 同42年(1909) 郡立 (大正11年に県立) 柏原高 等女学校校舎として使用された。 その間、 多くの卒業 生や著名な人物を輩出した。
校舎は木造2階建であり、屋根は寄棟造で桟瓦葺、外壁は下見板張りで、 壁には胴蛇腹、 軒蛇腹をつけ、 外に面する窓はガラスの上下窓で、 窓台とモールディ ング付き窓枠からなっている。
玄関ポーチは2階建で西正面中央に位置し、1階は 吹放しのポーチ、2階は室内である。
屋根は切妻造で、正面側をペディメントとする。 柱は石造の柱礎の 上にたち、円柱で中間部に繊細なフルーディングをつ ける。 柱頭はイオニア風の形態である。
明治初期に建設された擬洋風建築にみられる形式が よく保存され、 近代初等教育施設の建築物として兵庫 県下では最古の部類に属する貴重な校舎である。

さぁ、入ってみましょう
何度も外観は見ていますが、入館は、実は、初めてなのです

エエ感じですね

会場である2階へ

講演会場です

始まりました・・・「企画展 中井権次と柏原藩」

これは珍しい地図ですね



展示されていた、説明板

中井権次一統
1615(元和元年)~昭和初期
彫物師として名をはせる柏原の中井家は、 柏原藩二代目藩主織田信則の時に、徳川家康の召し抱え宮大工中井正清の流れを受け継ぐ二人の兄弟が、元和元年(1615) 丹後与謝郡の中井役所から柏原八幡宮の三重塔の再建に招請されたことに始まる。 彼ら宮大工三代は、大工町 (現在の柏原町新町界隈) に屋敷を用意され相当な待遇で迎えられていた。
四代目の中井言次君音 (享保7年(1722) 天明7年(1787))からは、宮大工を弟たちに任せ、神社、仏閣の装飾彫刻を始 めた。 柏原町の五社稲荷神社の彫刻がその始まりで、彫物師として優れた技量を発揮している。 中井家の彫り物の主題は、龍であるが、霊獣、聖獣等多彩な彫り物を設えている。
屋号に青龍軒を揚げた五代目は、 中井丈五郎橘正忠 (寛延3年(1750)~文化15年(1818))、
六代目中井権次橋正貞 (安永9年(1780)~ 安政2年(1855))、 その弟の中井権次橘正用、そ
の子正実、 七代目中井権次橘正次 (文政5年(1822)~明治16年(1883)) 八代目中井権次
橘正胤(嘉永8年(1854)~昭和3年(1928))、 九代目中井権次橘貞胤 (明治5年(1872)~昭和33年(1958))と続いて作品を輩出している。
丹波市に居住した彫物師中井一統の活躍地域は、丹波市だけでなく、 篠山市、三田市、但 馬全域、 播磨の一部、福知山市、綾部市、宮津市、京丹後市、南丹市、京丹波町等々に及んでおり、その広域性と累代に亘る継続性は類を見ないものである。



織田信包 1543(天文12年)~1614(慶長19年)
織田信包は、丹波国柏原藩の初代藩主であり織田信秀の息子で、織田信長の弟として、天文12年(1543) に生まれた。
初名は信良、通称は三十郎、別名は信兼と称した。
永禄11年(1568) 兄・信長の命により長野氏に養子入りし長野信包と称し、伊勢国上野城主となった後に伊勢を加増され安濃津城の城主となり、織田上野介と称した。
その後、信長に従って各地を転戦、兄の天下取りを補佐した。
天正元年(1573) 小谷城の戦いで信長の義弟・浅井長政が滅亡した際には、長政の正室で信長の妹の市とその3人の娘、茶々、初、江を保護している。
天正10年(1582) 本能寺の変で信長が亡くなったあとは、豊臣秀吉に従ったが、小田原征伐や朝鮮出兵について秀吉と意見が合わず改易に処せられてしまい、与えられていた安濃津城を没収され、近江に移封(2万石)となった。文禄3年(1594) 信包は、剃髪し老犬斎と称し、京都の滋雲院に隠棲した。
秀吉が亡くなる直前の慶長3年(1598) に、丹波国柏原に3万6千石を与えられ柏原藩主となり、秀吉の遺命により秀吉の子秀頼の補佐役に任じられている。
柏原へ移封となった信包は、 加古川の水運と山陰街道を整備し、柏原町母坪に舟着場を設け、加古川を下り高砂から大坂までの舟運を開いたともいわれる。 また、氷上町沼村が毎年
洪水で水没したことで、 慶長16年(1611) に佐治川に堤防を築き、河川改修を行い、村民の 税負担を軽減している。 信包の死後その遺徳を偲びお宮が建てられ、今も織田上野介明神と
して祀られている。
慶長19年(1614)、72歳で没した。


今回の講演会とは関連はありませんが、丹波と云えば、赤井氏、黒井城

荻野(赤井)悪右衛門直正 
1529 (享禄2年) ~ 1578 (天正6年)
甲斐武田氏の甲州流軍学書 「甲陽軍鑑」に、名高き大将来 13人の筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」と記され、近隣諸豪から「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた直正は、荻野氏一族である氷上町新郷の後屋城主赤井氏の出自で、幼名を赤井才丸といい、幼少の頃から豪胆、知勇に優れていた。
春日町朝日の朝日城を拠点とした荻野十八人衆の盟主として請われ、 荻野姓を名乗った。
天文23年 (1554) の正月2日、年賀の席で黒井城主荻野伊 豫守秋清を刺殺して黒井城主となり、これより悪右衛門と号して、黒井城南麓 (現興禅寺地所)に下館を設け本格的に黒井城及び城下町の整備に着手した。
折しも、勢力を伸ばしてきた織田信長に直正は、一度服命するが、但馬此隅城の山名氏とのの関係が悪化し、 これが一因で信長と敵対することとなった。
信長は、天正3年(1575) 明智光秀を総大将として丹波平定に派遣している。
光秀は、 八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆の過半数を服従させ黒井城を包囲したが、交戦は2ヵ月に及び翌天正4年(1576) 1月15日、かねて盟約どおり突如波多野軍が寝返って光秀を急襲し、総崩れとなった光秀は壊滅的な打撃を受けて亀山城に帰城した。 これを後世「赤井の呼び込 み戦法」 と呼んでいる。
信長との対決が間近くなった直正は、毛利氏の提唱する「三道併進策」 に呼応し、反織田勢力の毛利 吉川、武田、石田本願寺等と同盟を結びその一翼を担ったが、天正6年(1578) 3月9日に病没する。
直正の死後、盟主を失った黒井城は、日に日に士気が衰え、その勢力も衰退し、光秀の2 回目の黒井城攻めに、遂に落城の憂き目を見ることとなった。
勇猛を誇った直正の武勇伝は、この地に伝わる黒井音頭にも長々とうたわれ、今も人びと の間で語り継がれている。


追記:文中文言は、案内板より引用しております


現在の街割り、道とも同じように見えますね
上の地図と見比べると・・・
まっすぐ伸びる道が、大手筋 その突き当たりに大手門があったらしい

2月14日の展示説明会と、2月23日の講演会は、新発見がお披露目され、その説明はなかなか興味深いものでした

講演会が終わり、皆さんは、歴史資料館で説明に行かれましたが、私は前回、説明を聞いておりますので、単独?だれもいない柏原藩陣屋へいき、新発見の梁を独り占めして眺めてきました
そして、丹波市学芸員さんに許可いただき、撮影もできました

その記事は、次に・・・

いやいや、じつに楽しかったです
講演時間は1時間30分、あっという間に終わりました
参加人数は予約制で、およそ50人
みなさん、中井権次のファンでしょう・・・勉強熱心です
これからも、中井権次一統についてもっと知りたいと思っております











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