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2023年3月27日

承久の乱ゆかりの地、椋橋総社(鯉の宮) 大阪府豊中市庄本町1-2-4

椋橋荘氏神・勅願所・鯉の宮である「椋橋総社」 大阪府豊中市庄本町1-2-4です
所用の折、そばを通るのですが、阪急神戸線の踏切もあり、旧猪名川もあり道複雑で、スルーしていました
大河ドラマ、鎌倉殿で有名な承久の乱ゆかりの地でもあり、今回参拝いたしました

社叢のクスの巨木がすごいです
左右の金網で囲まれているのが鯉の池のようです

承久の乱ゆかりの地 椋橋荘
鎌倉時代この地一帯は椋橋荘と呼ばれる荘園でした。 椋橋とは古墳時代以降にこの辺りを治めた豪族、椋橋部連に由来します。「庄本」の地名は、椋橋荘の「荘」が庄となり、荘の中心地であったことから庄本と名づけられたとされています。 古来より猪名川で運ばれた土砂による肥沃な土壌と、池田からの木材運搬、瀬戸内 海から京の都へ運ぶ物資を内航船から川船へ乗せ換える港 (河尻)として大いに栄えた地域でありました。
当時この椋橋荘を所有していたのは、時の権力者であった後鳥羽上皇や藤原氏 でした。上皇は自らの離宮水無瀬殿に江口・神崎から遊女・白拍子を集め豪奢な 宴を開いておりました。そのうちの一人に上皇の寵愛を一心にうけた白拍子が いました。名を亀菊(後の伊賀局)といい、上皇はこの亀菊に椋橋荘を与えていました。

その時代、鎌倉幕府が既に存在していたとはいえ、畿内はまだまだ京の朝廷勢力が強い中で、幕府は地頭を配置します。 荘園の支配権をめぐり、亀菊とこの地頭 の間に諍いが生じ、上皇は、時の幕府執権北条義時に地頭の罷免を要求しますが、 幕府はこれを拒否します。 この事件を機に、幕府と緊張関係にあった後鳥羽上皇は、承久三年(千二百二十一年)義時追討の院宣を出し、ここに後鳥羽上皇対北条義時の 「承久の乱」が勃発します。
美濃の各務原と宇治川で両軍の決戦となり、朝廷側は敗れて上皇は隠岐の島へと流されることとなります。(吾妻鏡・承久記)

白拍子から後鳥羽上皇の寵姫まで登りつめ摂社「出世亀菊天満宮」として往時を偲ばせております


参拝いたします



椋橋総社略記
御祭神:素鳴之尊・神功皇后
御利益:国土安全、国家安泰、邪悪災厄除け、病気快癒、学問上達 縁結び、商売繁盛、交通安全、安産、子供守護
御由緒:当神社は古来より東西椋橋荘(現庄内一円、豊南町、上津島、 今在家、尼崎市戶の内、神崎、額田、高田、園田周辺)の中央 である本(庄本)に鎮座し、同荘の産土神で、掠橋総社又 は椋橋荘神前松原の社とも称する。
遠き神代の御時、素鳴之尊が高天原より鯉に乗り神前(神 崎)の水門を経て、当荘に御降臨なされたことにより崇神七年 椋橋部連の祖、伊香我色平命が斎い定め祀ったと伝えられている。
又当神社は神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭 に集め、幸をお祈りになったという霊験著しい古社である。 天文八年御奈良天皇の勅願所と定められ、東京橋荘を社領とし て加えられた。
明徳二年藤原秀安は金鼓を寄進した。
天正年間池田筑後守は嫡子多聞丸誕生のため武運長久を祈り獅子頭を寄進した、獅子頭は社宝となっている。
その他当神社には鯉伝説がある。
又、当地椋橋荘は承久の変(一二二一年)発端の地である。


梁上、鯉ですね

木鼻



鯉伝説・・・
素戔嗚尊は高天原から鯉に乗り神崎の水門を経て降臨され、崇神天皇7年に伊香我色乎命が祀ったと伝えられています。

出世亀菊天満宮並びに恵比須神社

一、出世亀菊天満宮
鎌倉時代、時の帝、後鳥羽上皇御信仰、上皇の寵姫亀菊、後の伊賀局の信仰厚かった天満宮をこの地に勧請し、出世亀菊天満宮としてお祀りしている。
御祭神は菅原道真公・学問上達の神様
二、恵比須神社
本殿御祭神素盞鳴之尊の御子孫事代主尊を 大昔より祭祀する。
福徳の神、商売繁盛の神 として信仰厚き社である。

椋橋荘と承久の変(一二二一年)について 鎌倉時代、この地椋橋荘は後鳥羽上皇の寵姫亀菊の 所領であった。地頭との間に紛争を生じ、後鳥羽上 皇は時の執権北条義時に地頭の改補を要求、幕府は これを拒否、当時、朝幕間に緊張関係があり、このこ とが起因となって承久の変が起った。「東鑑」「承久記」


        旧大鳥居の柱
これより二百米南にあった元禄十年(1697)建立の大鳥居、高さ五七米、巾七・二米は平成七年一月十七日発生した阪神淡路大震災により倒壊した。
この石柱は大鳥居の東側の柱の一部である。ここに記念として保存する。平成八年九月吉日 

手水舎

この記事を記するとき、調べたのですが・・・
東西椋橋荘は、12世紀半ばに、摂関家領椋橋荘が椋橋東荘と椋橋西荘に分立してできた荘園で、猪名川と神崎川の合流点、現在の大阪府豊中市南西部と兵庫県尼崎市戸ノ内町付近に位置した)の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で、椋橋総社又は椋橋荘神前松原の社とも称する。遠き神代の御時、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神天皇7年(紀元前91年)11月、椋橋部連の祖、伊香我色乎命が斎い定め祀ったと伝えられている。椋橋荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその部曲民の住む土地であった。この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橋荘が石蓮寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、洲到止、荘本(庄本)、島江、以上14ヶ村と、西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴太、富田、額田、高畑、善法寺、法界寺、以上10ヶ村と、東西合せて24ヶ村からなっていた
・・・Wikipedia

若い頃から、この地域は仕事で、往来してはいたものも、今、知る情報ではなかなか興味深い地域です

「庄本まちあるき」をしてみましょうか!



追記:記事中文言は、案内板、Wikipediaより引用しました









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