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2019年8月25日

明延鉱山、明延地区の街、一円電車です

和田神社で、中井権次一統の足跡を拝見して、次は、近代化産業遺産、一円電車くろがね号の場所へ向かいます
明延鉱山、明延地区の街・・・2016年1月9日に訪れました

下、案内板には、和田神社が入っていますね・・・
・・・2016年の折にはこの案内板は無かった‥多分?

その途中…旧北星住宅

昭和11年に建築された鉱山従業員の社宅の一部で、通称「長屋」と呼ばれています
北星西部地区には昭和28年に近代的なプレコンの2階建住宅が建てられました
鉱山の最盛期(昭和30年)には社宅が780戸あり、4000人以上の住民が生活していました
現在残っている社宅は、市営住宅として利用されています

鉱山の里

8月の日曜日には動かしているようです

日本遺産 明延鉱山、中瀬鉱山

養父市指定文化財 明延鉱山明神電車(客車くろがね)



       定員:23名


現在の牽引車

明延鉱山の一円電車

この電車は開延鉱山で走っていた鉱山電車です。
乗車料金が一円ということから一円電車の愛称で親しまれていました。
正式名称は明神電車です。
一円電車は昭和20年に鉱山従業員の通勤用として運行を開始、昭和62年、鉱山閉山によって廃止されました。
客車には「くろがね」「白金」「赤金」などの名前がつけられ、開延鉱山から神子畑選鉱場までの6㎞の区間をガタンゴトンと走っていました。


「しろがね」


昭和17年製か! 凄いね


       ・・・‥運転席・・・‥


元協和会館


協和会館は鉱山従業員の娯楽・集会施設として昭和6年に建築され昭和32年に今の建物に建て替えられました。
鉄筋コンクリート2階建て、延1122㎡の当館は収容人員1,150人という大きな施設でした。
当時の会館には有名な芸能人や一流の歌手が来演し近郊からも多くの人々が押し寄せていました。
毎日のように最新の映画も上映されていました


2016年1月に初めて訪れ、今日が2回目です
平日なので、閑散としています・・・
明延鉱山、一円電車、神子畑選鉱場跡、銀の馬車道という近代化産業遺産という名がピッタシな地域となっていった歴史を再び、読み返しています!


・・・‥2016年1月にも記しました・・・‥
「明延鉱山……日本一の錫鉱山」
奈良・東大寺の大仏鋳造の際、明延産出の銅が使用されたと伝えらえる歴史の古い鉱山です。
豊臣秀吉が支配し、江戸時代に江戸幕府の下で生野奉行所の所管になりました。
国内有数の銅山、銀山として盛衰を繰り返し明治で畏怖によって明治5年に官営化。
その後三菱に払い下げ、明治42年に錫鉱脈が発見されると、「日本一の錫鉱山」として栄え、錫の産出量は全国の90%を誇ったといいます。
昭和30年頃には、従業員は1500人、職員住宅に暮らす所帯数は1200以上、人口も4000人を超えました。
明延鉱山は、やがて世界的な鉱物の価格競争に巻き込まれます。
円高によって採算性が合わなくなる中、昭和62年(1987年)有望な鉱脈を残したまま、閉山となりました……鉱脈の道より引用








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