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2023年12月13日

四国、お城巡りの旅 高松城 (玉藻公園)です

四国にある、現存天守を含むお城を巡りたいと、走ります
四国へは、山陽道から入るのがいいと思うのですが、生憎先日の事故によるトンネル工事、通行止めため、淡路島経由で、四国へ向かいます

定番、淡路SAで記念?撮影

大型観覧車
神戸淡路鳴門道を走り、四国へ、そして高松道を走り、高松城へ向かいます
四国と云えば、「ことでん」
無事、到着です 距離172kmです

史跡高松城跡 (玉藻公園)へ入ります

旭門と旭橋
旭橋と旭門(大手)、 桝形石垣
生駒家時代は桜の馬場の南に大手門がありました。 旭門は寛文11年(1671年)頃、 松平家が行った城の改修 により設けられた新しい大手門です。 
門に対し斜めに架 かる旭橋は敵に横方向から攻撃できる構造となってい って、敵の進入を防ぎます。 
欄干の親柱には松平家12代御 当主の壽伯爵の 「旭橋」 と昭子夫人による 「あさひは し」の文字がみられます。 
旭門を入ったところにある桝形 石垣は、攻め込んだ敵を包囲するためのもので大きな 切石の乱積みが見るものを圧倒します。 
桝形の北側には埋門があり、南側には太鼓御門がありました。

 桝形石垣

史跡高松城跡 (玉藻公園)の沿革
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕言葉に 「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。この城は、天正15年(1587年)に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、天正16年から香東郡 野原圧(箆原)と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城 (水城) です。 縄張り(設計)は、当時築城の名手であった黒田孝高(如水) とも細川忠興ともいわれています。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。 城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国 (秋田県) 矢島1万石に移されました。 
このあと、寛永19年(1642年)に当時常陸国 (茨城県)下館藩主だった松平賴重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀 (水戸黄門)の兄にあたります。 将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたとい われています。賴重以降、 松平氏の治世は11代228年間にわたり、 高松は松平氏の城下町として栄えました。お城は、明治3年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890年)に城跡 の一部が松平家に払い下げになり、昭和20年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79,587m2 (約2万4千坪) で、往時の城域66万m2(約20万坪) と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や良櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしていますが、これは第11代藩主賴聰の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。・・・説明板より引用



桜御門です

桜御門は、御殿である披雲閣の正門にあたる櫓門です。
節句や行事の際に桜の幔幕が架けられました。
築城当初から数回の建替えを経て、明治維新以降も残存した城郭建造物で、昭和19(1944)年には国宝(現在の重要文化財)に指定されることが内定していましたが、翌昭和20(1945)年の高松空襲で焼失してしまいました。
高松市では、発掘調査や文献·古写真を基に復元研究を進め、焼失から約80年の時を経て現地
に復元整備しました。
高松市教育委員会・・・説明板より引用


天守台です
よき天気です
天守台の右横にそびえる29階建ての高松シンボルタワーに後ほどいきます 

大願成就あらず、「鯛願城就」
これ、NHKのブラタモリで、タモリさんが面白がっていました
ぜひ、やりたくて、探しました
そう、鯛に餌をやるのです
鯉ではありません、鯛です
それも天然鯛・・・

いや~ すごいです
鯛・鯛・鯛・・・
感動ものでした、今年一番の面白いものだったですね

NHKのブラタモリでは、この船着き場で撮影でしたね

水門
この城は堀が海とつながっているので、潮の干満による 水位調整のため水門が設けられています。 堀にはタイや ヒラメなど海の魚がいて、 鯛のエサやり体験「鯛願城就」 や和船「玉藻丸」 の内堀遊覧 「城舟体験」 (3月~11月)を 楽しむことができます。 
また、6月の第一日曜日には水任流保存会による「英公様追悼游泳祭」が開催されます。


天守台
生駒家時代の天守は絵図や古文書によると3重だったとされています。 松平家時代の寛文10年 (1670 年) に改築された天守は3重5階 (3重4階+地下1階) 造り (南蛮造り)で四国最大の規模を誇っていまし た。天守は明治17年 (1884年) 老朽化を理由に取り壊 されましたが、 平成17年には英国ケンブリッジ大学図 書館で天守の鮮明な写真 (明治15年撮影) が発見さ れ、平成17年から平成25年にかけて行われた天守台 修復工事で地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現われるなど天守の再現に期待がかかっています。



高松城天守 地下一階の発見
高松城天守
高松城の天守台には、かつて3重5階(3重4階+地下1階)建ての天守が建っていました。右の写真に写っているのは松平賴重が生駒期の天守を改築し、寛文10(1670)年に完成した天守です。この天守も老朽化により明治17(1884)年に取り壊され、その跡に初代藩主賴重を祀る玉藻廟が建築されていました。
石垣修理工事に伴い、天守台の発掘調査を実施しました。調査の結果、天守が建てられていた当時の地下1階の基礎構造がほぼ明らかになるという大きな成果をあげました。
天守の地下1階は東西13.6m、南北12.2mの空間の中に、「田」の字状に52個の礎石が並べられ、さらに礎石で区切られた4箇所の区画中央にはそれぞれ掘立柱が建てられていました。礎石には土台の痕跡が残っており、そこから地下1階が当時の寸法で東西六間、南北五間であることが判明しました。この寸法は『小神野筆帖』という文献に記された内容と合致しており、文献の記載が正確であることが判明しました。
発掘調査成果とあわせて、城内に現存する櫓との比較や、古写真·絵図·文献資料などから、天守の構造について復元案を作成しています。ただし、発掘調査でも分からなかった、内部の階段位置や各階の内装についての情報はいまだ得られておらず、今後の新資料の発見と調査の進展が待たれるところです。・・・説明板より引用


鞘橋
鞘橋は、ニノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落とすことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干が描かれており、屋根のない橋でした。その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。
昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。・・・説明板より引用

天守台より見る鞘橋

重要文化財 高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島1万石(秋田県由利本荘市矢島町)に移封されました。その後、寛永19年(1642年)松平賴重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城の一つに数えられています。
月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭の隅櫓として延宝4年 (1676年)2代賴常公の時代に、完成されたものです。ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけなて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年 (1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫·県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。・・・説明板より引用



この門もNHKのブラタモリでは、開けていました
NHKの力は、すごいですね
この門から藩主は参勤交代の折、船で海へと出て行ったらしい
後ほど、城外から眺めることにしよう


重要文化財 高松城旧東之丸 艮櫓
三重、 三階、 隅櫓、入母屋造、 本瓦葺
昭和25年(1950年) 8月29日重要文化財指定

高松城は、讃岐の国(香川県) の国主だった生駒親正公が築城したもので、 生駒氏が寛永17年 (1640年)に 出羽の国 (秋田県) に移封せられた後、 寛永19年(1642年) に東讃岐12万石の領主として入府した松平氏が 本丸、 東之丸、 北之丸などを修築し、 規模を整えたといわれます。 東之丸は現在の県民ホールのあたりをい い、 寛文11年(1671年)頃より行われた大改修の際、 新たに堀を開削して、 海に面して新たに構えられ た郭です。
櫓は、もともと東之丸の北東の隅櫓として建てられたもので、 北東の方角のことを丑寅(艮) ということ から、この名前があります。 記録によれば延宝5年 (1677年)に完成されたようで、 現在残されている月見櫓 と同時期に建てられたものです。 昭和40年(1965年)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市 が譲渡を受け、 国庫、県費の補助金を得て昭和40年10月より工期2年、工事費 2,800余万円を費やして解体修理を行い、 東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。 この移築にあたって、艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣の拡張工事を行ったほか、 石落しの取付の関係上、 建物を右に90度回転させ
ています。 櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風を設けているほか、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、 さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。 移築修理の際、 この櫓は建立直後に補強的な改造を受けているほか、 安政3年(1856年)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることが わかりました・・・説明板より引用


高松城旧東之丸 艮櫓

重要文化財 披雲閣 
延床面積は1,887m。 松平藩時代にも現在の場所に披雲と呼ばれる広大な建物(現在の約2 倍)がありました。 藩の政庁及び藩主の住居として使われていましたが、明治時代老朽化により取り壊され、その後、3 年の歳月と当時のお金で15万余円の 巨費を投じて、大正6年(1917年) 現在 の披雲閣が完成しました。 披雲閣には 142畳敷の大書院をはじめ、槇の間、松の間、蘇鉄の間など雅致を生かした部屋があり、波の間には、昭和天皇・皇后 両陛下が宿泊されました。 第2次世界大 戦後しばらく占領軍に接収されていましたが、 高松市が譲り受けてからは、貸会場として会議、 茶会、 華展などに利用され、市民に親しまれています。 

お庭から拝見

立派な松ですね

ソテツ

見事な松のお庭でした
さぞかし手入れが大変でしょうね


桜御門をでて、天守台を真ん中に石垣群を眺めます

高松シンボルタワーへ向かう折、月見櫓・水手御門・渡櫓を城外から眺めます
月見櫓・水手御門・渡櫓
月見櫓は北の丸の隅櫓として延宝4年 (1676年)頃に完 成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つ とともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので [着見櫓] ともいわれています。 総塗籠造りの三重三階・入母屋造本瓦葺で、 初重は千鳥破風、 二重は唐破風と屋根の形を対象させています。 月見櫓に連なる薬医門様式の水手御門は、いわば海の大手門です。

この門から参勤交代の折、船で出発したようです
今は、引き潮の時間?


道路を挟んで、櫓が・・・
これは、高松城、報時鐘
報時鐘
この鐘は松平家初代藩主頼重公が承応二年(1653年)城下の人々に時を知らせるため大判三十枚を加えて大阪で鋳させたものて最初外の西南田外江の邸(現在西内町四鉄病鬣)に返い外堀土手を設けた・・・昭和55年再建されたものらしい


駐車場に飾れていた「ブラタモリ」のポスター
いやいや、参考になりましたよ!


大願成就あらず、「鯛願城就」の鯛の餌やり・・・面白かった!!


さぁ、高松シンボルタワーへ向かいましょう


追記:記事中、文言は案内板、配布パンフより引用いたしました












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