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2023年12月15日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守、石垣の名城「丸亀城」です

高松城から、現存十二天守、石垣の名城「丸亀城」へ向かいます
途中、遅めのお昼ご飯、休息で、豊浜SAです
さぁ、メニューは、もちろん讃岐うどんです
向かって左端がうどんやさん・・・おいしかったです


SAから眺める、瀬戸内海

丸亀城に着きました
2013年11月16日 来ましたね
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2013/11/blog-post_4235.html

もう10年も前なんですね
懐かしい!
その後、西日本豪雨で南東部にある帯曲輪石垣と三の丸石垣が大規模に崩落したとのニュースには驚きました

でも、下写真のように、見せてくれる現存天守の姿は素晴らしい
さぁ、石垣を眺めに行きましょう


        史跡 丸亀跡跡

 慶長2年(1597年)、生駒親正・一正による亀山への築城に始まります。
このころの城造りは、織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉が築いた大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土を盛った土塁で囲み防御した「総構」となっています。生駒氏は慶長6年(1601年)に宇多津より人を移住させています。今の御供所町、北平山町、西平山町です。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣により豊臣氏が滅び、徳川氏の天下となります。
徳川幕府は武家諸法度を制定し規制を行います。元和元年(1615年)の一国一城令により生駒氏は、高松城を残し、丸亀城を廃城しました

その後・・・
寛永18年(1641)天草郡、富岡城主山崎家治、西讃岐5万石余の藩主となる
万治元年(1658)京極刑部少輔高和、丸亀藩主となる、石高6万67石
万治3年(1660)丸亀城天守完成する。
寛文10年(1670)丸亀城大手を北の現在地に整備する

そして時が経ち・・・
昭和18年(1943)丸亀城天守国宝となる   ・・・丸亀市広報より引用


堀端の高麗門を、「大手二の門」城内側を、「大手一の門」と呼びます
寛文十年(1670)京極氏のおり、完成しました

丸亀城大手枡形
もと南方にあった大手枡形を、京極氏が入城直後の寛文十年(1670)に北方の此の地へ移築したもので、大手一の門と二の門 狭間塀とよく調和された築造で、巨石を多く用いた堅固な枡形で、甲州流軍学の標準とする五間に八間の「五八の枡形」を凌ぐ、十間(18m)に十一間(19.8m)の巨大なものである


        さぁ、長~い、坂を上りましょう

着きました、高石垣(三の丸北石垣)
丸亀城跡は標高約六六メートルの亀山に築 かれた平山城で、山腹部、三の丸には高石垣が巡っている。特に北側の石垣は高さ20m以上あり、隅角部の石垣は算木積みと呼ばれる積み方で、直方体の大きな石を角石に用い、大面と小面を交互に組み合わせ、小面の角石の横には角脇石を配することで、高く強固な石垣となっている。丸亀城の高石垣は仰 (矩)返しという技法を用い、石垣下部は緩く上にいくほど急な勾配となり「扇の勾配」と呼ばれる美しい勾配で築かれている。

下写真、左隅に警備員さんが立っているので、いかに石垣が高いかよくわかります
奥の石垣を拝見したいが、これ以上奥にはいけません

今回は、ちと、訳ありでこれ以上、上りません

重要文化財 大手一の門

内部

梁が凄いです

現存十二天守・・・石垣といい、優美なお城です

西日本豪雨で南東部にある帯曲輪石垣と三の丸石垣が大規模に崩落した香川県の丸亀城の復旧スケジュールが元に戻るのは、3年遅れて約5年後2027年末ぐらいになりそうです
その訳は、2022年6月に、「三の丸」の地中深くから石垣の一番下に当たる「根石(ねいし)」が見つかり、石垣の高さが31mに及ぶことがわかりました。
単独の石垣の高さとしては大阪城の32mに次いで全国2番目です

市が当初、工事で取り外す石の数を6千個と見込んでいましたが、想定を超える被害のため、最終的には、倍の1万2千個程度になる見込みのようです
そして、丸亀城の石垣復旧工事は総額52億5千万円になるようです
・・・丸亀市広報より引用


頑張って、修復お願いします
完成の2027年末?2028年には、修復された見事な石垣が見られることを楽しみにしています











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