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2023年12月19日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守、「高知城」2回目 天守です

現存十二天守、「高知城」2回目です
前回は、懐徳館(本丸御殿)前まで石垣を眺めながら、公園を散策してまいりました

配布パンフより抜粋


南海の名城・高知城
高知城は.日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代のをに・えるでる。もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城かあり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた,しかし治水に難儀し、わすか 3 年で元親は浦戸城へ本拠を移した。その後、関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、慶長 6 年い 6 旧年)秋から築城をはしめた。一豊は築城家として知られた百 々 越前守安行を総拳行に任し近隣諸村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが、難工事の末城のほぼ全弊が完成したのは 10 年後、二代藩主忠義の治はに移った慶長炻年のことであった。享保 12 年( U27 年)には一部の建物を残し焼失。ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに 20 年以の歳月を要している,その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となっていまに至っている。別名を鷹城。



開館が午前9時ということで、その時間帯に合わせてきました
訪れる方もわずかで、ゆっくり拝見できることでしょう

懐徳館(本丸御殿)
本丸御殿に入ります

本丸御殿は書院造です

書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の 住宅様式として完成した。 それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物 (書院) は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸・明障子・雨戸が立てられ、内部は間仕切が増えて大小の部屋が 間仕切には襖・ 明障子が用いられる。 柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。 また、天井には格天井が用いられる。
書院造は主室の床を一段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、 身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。



うちわけ波の欄間 (波の透彫欄間)


下段の間と次の間の間に設けられた欄間。
作者は、「土佐の左甚五郎」と称される名工武市高朋 (通称甚七 1722~1776) と伝えられている。 黒潮の波をシンプルに表したもので、近代的なデザインセンスが感じられる 優品である。


物見窓

矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓のことで、本丸東南面の物見(監視)を担う軍学上重要な窓。矢狭間塀には、監視や鉄砲を打っためにある狭間が設けられているが、確認できる範囲が狭いことから監視範囲を大きくとった物見窓が設けられている


いよいよ、天守です



天守、最上層です
誰もいません、貸し切り状態です

漆塗りの高欄で、その前に鉄製の手すりがあるおかげで廻縁に出てみます
実は、高所恐怖症になりました
犬山城の廻縁でつるっと滑ってから、だめなんです
高知城は、手すりのおかげで四方を見ることができました


左下が追手門 四国電力の鉄塔がみえる

左奥は、二の丸 鉄門跡と詰門

中央、黒鉄門とその右は西多聞

左、西多聞 右は廊下門

三の丸

漆塗りの高欄(ピンボケご容赦)
山内一豊が創建した天守には、現在と同じく黒漆りの高欄が取り付いられ高欄ていた。この高欄は、一豊が徳川家康に願い出てされたもの。最上の廻縁に巡らされた高宿は装第的であり、権威の象徴として意味も持つ。天守は、享保12(1727)年に燃失したが、再建後も創建時の天守と同様に高欄が取り付けられた。漆塗りは32工程の手間をかけて丁寧に仕上げられている。漆は、紫外線弱く美観を維持するためは、手入れが必要である
2021年3月 11年ぶりの改修がされた高知城の天守の最上階を囲む「高欄」


西方面

東方面

南方面

北方面


鯱は、日本建築の屋根の先端に付けられるもので、中国の伝説上の生き物を表したものである。高知城の鯱は、上重、中重とも青銅製である。それぞれ、雌雄一対で阿吽の相を表している。宝暦7年 (1757)と寛政4年 (1792)の二度にわたって暴風雨により転落した。明治32年 (1899)にも落下した記録がある。




  さぁ、下の層へと下りましょう

手斧で仕上げられた床面

左、西多聞(一重櫓、本瓦葺) 右、廊下門(櫓門、入母屋造、本瓦葺)
ともに重要文化財です


詰門
構造形式 櫓門 北面入母屋造二階建
南面廊下門に接続 本瓦葺
建築年代享和 2(1802) 年
詰門は、本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門である。 廊下橋としての役割も担っており、 二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、 詰門の名が付けられたと言われている。
一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。



通常の見学ルートはここから入ってくるのですが、私は逆に来ましたね

二の丸

藩主の暮らすニノ丸御殿があった。北東には家具櫓や数奇屋櫓などがあり、それらの櫓はその名前が示すように調度や道具類を収納していた。西端には 3階建ての乾櫓があり、さながら小天守のようであったといわれる。


       鉄門跡から天守を望む

三の丸、杉の段の石垣
雨の多い土佐のこと、高知城において「雨仕舞い」は敵からの防御と並び重要であった。城内には多くの水路が設けられ、石垣から飛び出した石で排水していた。城内で 16 簡所が確認され、本丸の石桶はいまも現役である。三ノ丸で発握された水路と石当は構造をいつでも見ることができるようになっている。高知城の石垣は、近江の技術者集団・穴太衆によるもの。雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されている。見かけは雑にみえるが、非常に頑丈な築き方である。なお、城内では杉ノ段にある石垣と鉄門にある打込ハギの石垣が特に美しく、必見。


重要文化財 追手門東北矢狭間塀
延長二七・六メートル、銃眼五所、本瓦葺

高知城をめぐる堀のうち、現在残されている場は約1 / 3 足らす。また、堀の幅も現在では半分近くになっているほか、城のそばにあった土爨も撤去されているなど江戸時代とは大きく様子が変わっている。昔は城の北側を流れる江ノロ川から水を引き入れていた。


山内一豊の銅像
土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545) 生まれ。 13歳の時尾張国 (愛知県) 岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。 天正元年(1573) 豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉浅井攻めに出陣して武功を上げた。 以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県) 長浜2万石の城主から、 天正18年(1590) 小田原攻 めののち遠州 (静岡県) 掛川5万石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。
慶長10年(1605)9月20日没。 61歳。
この銅像は大正2年(1913) に建設された銅像 の原形をもとにして平成8年(1996)9月20日 に再建除幕された。

土佐犬
2回にわたり、現存十二天守「高知城」の記しました
開館に合わせ、本丸御殿、天守を拝見いたしました
おかげで、天守最上層は、私と嫁の貸し切り状態で、その眺めにしばし見入っていました
天気にも恵まれ、ほんとうに良かったです
早起きは三文の徳といわれるように、高知城を堪能いたしました


追記:記事中、文言は、案内板、配布パンフ、高知市広報より引用しています











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