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2026年6月7日

長野の旅 国宝松本城です、その二、入城

松本城・配布パンフの説明によれば…

松本城天守築造
松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた 深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が 乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の 井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館 東の山麓の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めまし た。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造 られました。その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としま した。その後天正十年(1582)に小笠原貞慶 が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を 回復し、名を松本城と改めました。
豊臣秀吉は、天正十八年(1590)に小田原 城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数 正を松本城に封じました。
数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守 三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓 門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、 近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
天守の築造年代は、康長による文禄二年から三年(1593~4)と考えられています。



入りましょう
黒門です

いち早く、入ってきたお陰で、人影はありません
よき一枚になりました

城入口です
左側が、電子チケットでの入城、入場券は右の松からぐるっとまわって入ります


渡櫓(天守への入口)

天守と乾小天守をつないでいるのが渡櫓です。天守閣への 入り口である大手口は、頑丈な扉があり 簡単には中に入れないように造られてい ます。

天守内部です

階段付近は撮影禁止
なかなか手ごわい階段です

鉄砲の蔵 天守二階

古さを感じますね

この階は窓が多く明るい階です。竪格子窓(武者窓)が東・西・ 南の三方にあります。
四部屋に分けられ ていて、武士たちがつめている武者溜だったと考えられています。


御座の間(天守四階)
書院造り風のこの部屋は、いざというときに は、城主がいるところ(御座所)になりました。 天井が高く、四方から光が入ります。柱はすべて桧で、かんながかけられていて鴨居の上には小壁もあり、てい ねいな造りに なっています。



天守六階
天守六階は周囲に3尺(90cm)通りの入側が巡る3間の一部屋となっている。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能である(階段を除き京間16畳となる)。
有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところである。
六階の床面は地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は山辺谷から美ヶ原高原、南は
松本市街の中心部と塩尻·木曾方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス
(乗鞍岳·槍ケ岳·常念岳·燕岳など)、北は信州大学·国宝開智学校から放光寺·城山
方面が一望できる。


天井の井桁に組まれた太い梁の奥に祀られている松本城の守護神である「二十六夜神」の御神体です
ここは戦の時、周りの敵の様子を見るところ(望楼)として使われました。
天井は井桁梁で六階に登る階段(天守五階)がっちりと組まれています。
天井中央にまつられているのは、 二十六夜神と いう松本城を守る神様です。


天守六階から西側を望む

北側 国宝旧開智学校がみえるね

月見櫓に下りてきました
北·東·南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗
りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守·
渡櫓·乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、
寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体と
なっているのは、松本城だけである。


この月見櫓は、人気なのか? 窓に近づけないほど満室?
外人さんが、窓ベに座って休憩していて動かないのです
それと、女性、Bigなのです

天井を眺めて梁をパチリです


下りてきました

石落と狭間
天守閣では、戦国 時代の主力武器であ った鉄砲戦への様々 な備えを見ることが できます。
厚い壁には矢狭間・鉄砲狭間 があわせて二五ヶ所 あり、天守・乾小天守・ 渡櫓の一階には石落が設けられています。 石落は石垣を登って敵を防ぐ工夫で、 狭間と同じように 鉄砲を使っての攻撃も可能な武備でした


月見櫓が順路、出口になっています
その付近の広場で、人気、忍者ショー? 
みなさん、楽しんでいました
平和な時間です

写っている方は皆、外国人観光客の皆さん

太鼓門・鏡石
玄蕃石伝説
伊深(松本市岡田、別に山辺山という説もある)にとても大きな石がありました。
太鼓門の脇にすえる石にちょうどよいということになり、石川玄蕃頭康長みずからが石の上に乗り、お城まで運ぶことになりました。

ところが、石を運ぶ人々の中に一人、不満を言う者がいました。それを聞いた石川康長は石から飛び降りると、 不満を訴えた者を呼びだし、大勢の前で首をはねました。槍をとると、その首を突き刺して高くかかげ、ふたたびその大石の上に飛び乗ると「者ども、さあ引け!」 と大声で号令をかけ、石を引かせました。
このできごとがあってから、誰がそう呼び出したのかは分からないけれど、その大きな石を玄蕃石と呼ぶようになりました。
このような名前がついた石は、珍しいです。


太鼓門枡形の由来
城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。 その典型的なものが枡形門で、 石垣 土塀を四角に囲って、 内と外に門を二重に構えたものである。 松本城には、大手門・ 太鼓門・ 黒門の三つの枡形門があった。
太鼓門は、天守築造後の文禄4年(1595) 頃に石川康長によって築造され、それから270余年後の明治4年(1871) 11月、 旧物破壊の風 潮の中で取り壊されたままになっていた。 第2次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、 松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て、 平成11年(1999) 3月、 128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。
この門の名称の由来となった太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、 太鼓や鐘がおかれて様々な合図が発信され、 また櫓門の脇には、築造者の 官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃石」 を据え威風堂々とした枡形門を形造っていた。 一般に城の重要な門には、 威厳をそえるため 巨石を据えることが多かった。 この玄蕃石も同様な意味を持つものである。
石川康長のころには天守を中心として本丸・二の丸 (内曲輪) を 「御本城」 として整備拡充し、 三の丸 (外曲輪) には武士を集住させるため の武家屋敷を建設し、 五ヵ所の城戸 (柵門) はいずれも櫓門に変えられた。


二ノ丸御殿跡へ入ります

二ノ丸御殿跡から天守を望みます

北裏門跡への橋

プリウスα君の車内より信号待ちの時の一枚です
ここが正式な?観光入口かなぁ?

と、いうことで念願の松本城へ行ってきました
TV番組で放送される松本城の撮影ポイントでの撮影もできました
開城前の時間に並んで入城してだれもいない、写らない天守も撮影できました

さぁ、松本城を展望できる、松本市市役所に行きましょう




追記:記事中文言の一部は、配布パンフからの引用です











2026年6月6日

長野の旅 国宝松本城です、その一

来ました、念願の国宝松本城
TVなどの番組で天守の姿をみるたび、行きたいと思っていました
しかし、長野、我が家からは遠い地でその日は何時になるかなぁ?と思っていました

前日の天気予報では曇りでしたが、一夜明けて、なんと青空がみえるよき天気になりました
これは、昨夜のラッキアイテム、恵比寿ビールのお陰かも!!


ここの「P」も天守北側にありまして、すぐ天守、内堀側に入れます

おおぉ! 松本城天守が見えてきました

埋門
東からの朝日で逆光です

これから内堀を歩きながら、TV番組でみている国宝松本城を撮影して歩きます
まだ、開門までは時間に余裕があります

この位置ですね、ステキです

パンフタイトル 「四百年余の風雪に耐えて…国宝 松本城」


ちょっと進んで
 
  

さらに進んで、月見櫓が登場?です

西の山並みは北アルプス?、穂高岳も見えるかなぁ?



高麗門です
時間前ですが、多くの外国の方がいてはります


並ぶこと、一番のりと思ったのですが、二番目でした


史跡松本城の概要
<昭和5年(1930年)11月19日 指定 指定面積 約93,000平方メートル>
松本城は北東から南西に緩やかに傾斜した扇状地上にある平城です。 戦国時代の初めに 守護大名小笠原氏の支城としてこの地に深志城が築かれ、 1550年に甲斐 (山梨県)の武田氏 が小笠原氏を追放し、 深志城を信濃支配の拠点としました。 武田氏滅亡後、 小笠原氏が深志城 を取り戻し、名を松本城と改め、城郭と城下町の整備を進めました。 小笠原氏が関東へ移った 後の城主石川数正 ・康長父子により、 天守の建築 (1593年~1594年)などの整備が行われ、 近世城郭としての松本城の姿が整えられました。
松本城の範囲は、 総堀に囲まれた内側を指し、 総面積は約39万平方メートルあり、 その約 3分の1を三重の水堀が占めています。 総堀の内側に三の丸、二の丸、 本丸が配置され、 三の丸は家臣の屋敷地、外堀で囲まれた二の丸は二の丸御殿、 古山地御殿、 蔵などが置かれ、 内堀と外堀に囲まれた本丸には天守と本丸御殿 (1726年焼失)がありました。
天守は、 明治維新の際に市民の尽力により取り壊しの危機から救われて現存し、 国宝に 指定されています。 本丸、二の丸、 内堀、 外堀 総堀 西総堀土塁の一部は史跡に指定され、 天守と一体となって城郭の姿を今に伝えています。


高麗門前から黒門と堀

松本城観覧料

  電子チケットを購入しようと思ったのです
なぜか、事前購入のため、混雑時並ばなくてもスムーズに入城できるのです


朝一、開城の9時に合わせてこようと思っていたので、電子チケットは買いませんでした
それと、30分単位の時間枠なので、指定が難しいと思いましたので、やめました

と、いうことでここからは有料エリアです
入城しましょう

続きます









2026年6月3日

長野の旅、真田氏から今に伝わる上田城です そのニ、尼ヶ淵の石垣

城内から西虎口から急な階段をおりて、尼ヶ淵を歩いて石垣を眺めます


尼ヶ淵(西)

下、赤線 算木積み うめ殺しがみられる

この左側にある「上田泥流層」の案内板、尼ヶ淵の崖


上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分 流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上 田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、大水が出る と尼ヶ淵の崖を浸食することがあり、まさに諸刃の剣でした。 崖に見られる地層は三つです。上から1上田泥流層(火山が崩 壊した土砂などが堆積したもの)、一番下には3染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、火砕流に由来する粉じんが堆積しています。三つの地層の中では、2の層が一番軟らかくてもろいため、大水のたびに2の層を 中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛は享保十八年(一七 三三)から石垣を築いて、崖を浸食から守りました。尼ヶ淵の石 垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。



奥に南櫓

西櫓

川と河川敷? 自然の堀ですね


〈上田城お勧め見学ルートその4>

尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀) ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防俺は強固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めまし た 崖面に築かれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります そして享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました< そのため城主・松平忠愛は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南橋と西橋の下を除いて、石垣は低くなったり、造られずに終わってしまいました。


奥の石垣をみると…

算木積み うめ殺し(下赤丸)
ここからが真田でここからが仙石ともいえる可能性がある

このようなうめ殺し、算木積みを数ヶ所、見つけることができます
石使いは、赤丸と赤丸の間、算木積みの間の石は安山岩
外側は緑色凝灰岩、後で付け加えたものとわかる


地形がよくわかりますね

この辺一帯が尼ヶ淵
水運、船着き場 尼ヶ淵
流れ込んできた川の流れが淵になっている 
水運、船着き場とも考えられ物資の運搬やいざというときの脱出経路として船着き場があった痕跡の可能性がある
上田城のなかでは古手の石垣でもある

上部の石垣に転用石がみられるらしい




矢穴 石を割るために掘られた穴 約10cm 


南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから 修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。

ここは尼ヶ淵(東) 本丸堀の東側の端


下赤線・算木積みのうめ殺しがみられる
線の右は安山岩の野面積み、そして玉石、千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる石として使っていた
左は割石と緑色凝灰岩のできた石垣



じつはこの右に本丸堀の空堀の外側がみられるのですが、工事中のため入れません
よって、その石垣をGoogleMap ストリートビュから拝借しました

下、赤丸が石桶、排水溝
GoogleMapより



広すぎるので、2枚を合成してみました
今日のお伴のカメラにはパノラマ撮影機能がない!

上田城の石垣で使われている主な岩石
石の色の違いでも判別できるようです
1・緑色凝灰岩 
2・安山岩 江戸時代
3・玉石
千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる間詰め石として使っていた

南側の防御策として真田は河岸段丘を利用
当時は崖の真下を川が流れていたので防御力が高かったと

時代がわかるのか?算木積みのはめ殺しが数カ所みることができました

真田家からはじまり、仙石家・松平家と、築城から400有余年の今、この石垣をみていると、その歴史を感じるのですが、私は上田城=真田氏が染み付いていますね

よき御城でした