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2023年12月18日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守、「高知城」1回目です

やってきました、現存十二天守「高知城」です

宿の窓から見えた、天守、ライトアップの姿です
最高ですね
高知城の記事・写真が多い為、2回に分けて作成します
1回目は、天守に入るまでです


懐徳館、天守の開館が午前9時から、その周辺は公園なので、出入りは自由らしい
それでは、朝一に出かけ、9時から天守に上がるように頑張ります

今日も快晴、よき城見物と参りましょう
高知城のある大高坂山は、南北朝時代南朝方の大高坂松王丸が居城としたところで、その後1588(天正16)年長宗我部元親が岡豊城(南国市)からこの地に移り、居城を構えて城下町の建設に努力した。しかし、低湿地で洪水に悩まされ、やがて浦戸の地に再移転することとなる。
1601(慶長6)年、長宗我部氏に代わって入国した山内一豊は、間もなく「土佐郡国沢の内大高坂山」築城にかかった。石材は浦戸城の不要のものを取り壊して舟で運ぶほか、その他近隣の村々から取り寄せ、木材も周辺の村々から切り出し、瓦は職人ともども大阪に求めた。1603(慶長8)年本丸、二ノ丸が完成、一豊は浦戸から新城に移った。三ノ丸は地盤が悪いうえに狭小であったため工事に手間取り、ようやく1611(慶長16)年完成して城としての形が整った。1727(享保12)年城下の大火で追手門ほか二、三の建物を除いてことごとく焼失したため、翌年から再建に着手、1753(宝暦3)年三ノ丸の完工を最後として再建がなる。1871(明治4)年の廃藩置県後全国各地で城郭破壊が行われたが、高知城も1873(明治6)年本丸以外の二ノ丸、三ノ丸の塀や櫓を残して表御殿、奥御殿などの建物が撤去され、1876(明治9)年には本丸と追手門を残して塀、櫓及びその付属の建物が払い下げられた。
残存する天守他9棟は1934(昭和9)年国宝に指定されていたが、文化財保護法の成立によって1950(昭和25)年に重要文化財に格付けされた。
また、現在の高知公園他敷地は国の史跡に指定されている。
全国でも、本丸御殿の存しているのは高知城のみである。・・・高知市広報より



下写真・・・この構図が一番と云われているので、はい! パチリです
さぁ、入城します

重要文化財 追手門

慶長年間創建、 寛文4年(1664) に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正面である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取付けている。
の規模が大きく、城門として豪壮優 美な趣を備えている。

両脇戸付櫓門 入母屋造 本瓦葺 櫓腰羽目板張 板庇 寛文四年(1664) 
巨大な切石を積んだ石垣の桝形の上に南面して建つ規模雄大な建物である。
寛文三年(1633)に崩壊したのを翌年改築したもの



追手門から杉ノ段まで
追手門をくぐリ左手の石段を登り詰めると杉ノ段に至る。石段は登リにくく下りやすいよう幅が工夫されている。現在は蓋がされている井戸は良質の飲料水を汲めたことから、藩主の居住するニノ丸御殿まで毎日10時、12時、16時の計3回運ばれていたという。
藩主のお国入りや出駕の時には、一族がここまで送迎に出向いていたという。



石樋
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に 排水には注意が払われている。
石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、 他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されて いるが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。


三の丸石垣
三ノ丸は、慶長6年(1601)の築城開始から10年を要して最後に完成した。
面積は,641m2、 出隅部分の石垣の高さは約13m。
石垣に使用されている石材は主にチャートであるが、 砂岩、石灰岩も 一部使用されており、 穴太衆が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。 また、三ノ丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。
三ノ丸の入り口にあたる鉄門付近の石 垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたも のと見られ、砂岩で 構成された打ち込み。 ハギで築かれている。 今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確 認され、改めてその石垣解体前の三ノ丸石垣は、孕みや隅角部の築石にヒビ割れがはいる事実が確認された。

三ノ丸の石垣は、慶安3年(1650) 宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、 崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど原状復旧を基本として実施した。
石垣の裏ゴメや盛土の様子をみることができる改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費約4億円を要した。

天守が見えました


鉄門跡
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造 り二階建ての門が設けられていた。ここを入ると二ノ丸から本丸に通じる重要な位置にあるため石垣は 整然と築かれていて、門の扉には多くの鉄板が全体 に打ち付けられていたので、 鉄門と称された。
小さな枡形を形作っている門の内側には番所が あって、弓・鉄砲を持った番人と足軽が詰めていた。 右と正面の石垣の上には矢狭間塀がめぐらされて いて、門内に侵入した敵を3方面から攻撃できるよ うになっていた。 左に曲がって石段を上ると、狭 間塀のために二ノ丸方面への道は見えず、むしろ詰 門への石段が連続して見えるので、 自然と詰門の 方向に導かれるように巧妙に設計されていた。石段は18段あって「一八雁木」 と呼ばれていたが、現在 は 16段になっている。 石段の中間から鉄門の二階に 上がれるように設計されており、 そのあたりの石には切り出した時の楔の跡がそのまま残っているものがみられる。




詰門
詰門は本丸と二ノ丸の間に設けられた空堀をまたぐかたちで建てられており、橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、現在は詰門と称している。
東の出入り口は右寄りに設け、西の出入り口は中央につけられていて、筋違いになっている。これは攻め上ってきた敵が容易 に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によ るものである。 また、東からこの門を突破しても容 易に本丸には行けないようになっている。
一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するよ うになっていた。 中二階部分は窓もなく物置であっ たと考えられる。 二階は二ノ丸から本丸への通路でもあり、内部の3室を畳敷きとし、 家老・中老・平 侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。 板の間の東南隅には非常の場合の階下への抜道が設けられている。 また、 東面に3カ所、西面に5カ所 の隠し銃眼 (狭間) も設けられている。

本来なら、右へ回り込んで、詰門を通り、懐徳館、天守に向かうルートらしいが、天守の姿を拝見しながら、写真に収めたいので、左回り、鉄門方向へ歩を進めます



北多聞、忍び返し

犬走りから、三の丸(左側)を望む

高知城の石垣は、近江の技術者集団・穴太衆によるもの。雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されている。見かけは雑にみえるが、非常に頑丈な築き方である。なお、城内では杉ノ段にある石垣と鉄門にある打込ハギの石垣が特に美しく、必見。かっては三ノ丸御殿があり、年中行事や儀式を行っていた。長宗我部元親がこの地で築城した際の石垣が発掘され、見ることができる。




鐘楼堂

重要文化財 黒鉄門

構造形式 櫓門入母屋造 一階建 本瓦葺
建築年代 享保15 (1730) 年
本丸南側を固める門。 守りを堅固にするため、 扉の外側には、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けら れている。この様子から、 黒鉄門と名付けられた ものと考えられている。
二階部分は、武者が隠れることが出来る様にな っており、門の外側に石落としが設けられるなど 防御性の高い門となっている。

重要文化財 黒鉄門東南矢狭間塀
延長一四・六メートル、銃眼三所、本瓦葺



鬼瓦

鉄門

重要文化財 懐徳館(本丸御殿)
一重 入母屋造 本瓦葺 溜の間・玄関付属  江戸時代
懐徳館の名称は高知県に移管されてからのもので、城内に建てられた御殿の一つである。
この建物は、城主が平時居住するためのものではなく、正規の対面所としてつくられたもの。
天守同様享保十二年(1727)罹災後、延享四年(1747)までに再建されたものである。

ここが、天守への入り口でもあります
さぁ、いよいよ、本丸御殿から、天守へとまいります

次回に続きます

追記:記事中、文言は、案内板、配布パンフ、高知市広報より引用しています










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