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2023年1月3日

湊川神社‥「史蹟 楠木正成墓碑」です

湊川神社で忘れてはならない場所・・・
お恥ずかしいことですが、知りませんでした

楠木正成公墓所‥「国史跡・嗚呼忠臣楠子之墓」
そして、徳川光圀公銅像です

楠木正成公・墓所について調べて、まとめてみました


        従是楠公石碑道


        史蹟 楠木正成墓碑

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。
元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。
建武の元勲の1人と・・・

湊川の戦いは、南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である・・・Wikipediaより引用




  「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀公自らが筆をとられました
独特の墓碑の形の様式は「亀趺碑」といいます。四角の台座上に、神獣・贔屓の形に刻んだ亀趺が乗り、更に甲羅の上に碑石を担ぐように、三部分から成り立っています


        大楠公墓所 碑裏面「楠公の賛「朱 舜 水」

大楠公御碑贊 読み方
忠孝は天下に著き、日月は天に?天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞し、人心忠孝を廃すれば、則ち亂賊相尋ぎ、乾坤反覆す。余聞く、楠公諱は正成、忠勇節烈、国士無雙なりと。其の行事を蒐むるに、概見すべからず。大低公の兵を用ふるや、強弱のを勢を機先に審かにし、成敗の機を呼吸に決す。 人を知りて善く任じ、士を體して誠を推す。是を以て謀中らざるなく、而して戦克たざるなし。心を天地に誓ひ、金石渝らず。利の為に囘はず、害の為に怖れず。故に能く王室を興復して、舊都に還す。諺に云ふ、前門に狼を拒ぎ、後門に虎を進むと。廟謨威からず。元兇踵を接し、國儲を構殺して、鐘楼鎮を傾移す。功成るに垂んとして主を震す。策善しともも庸ひられず。古より未だ元帥前を妬み、庸臣専断して、大将能く功を外に立つる者有らず。之を卒ふるに身を以て国に許し、死に之くに佗靡し。其の終りに臨み子を訓ふるを観るに、従容として義に就き孤に託し命を寄するに、言 私に及ばず。精忠日を貫くに非るよりは、能く是の如くひて暇あらんや。父子兄弟、世々忠貞に篤く、節孝一門に萃まる。盛なる哉。今に至るも王公大人より、以て里の士に及ぶまで、口をへて誦説してされ豪へざるは、其れ必ず大いに人に過ぐる者有らん。惜しきかな、筆に載する者考信する所なく、其の盛美大徳を發揚。
 右は故の河攝泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の賛、明の士舜水朱之瑜字璵の撰する所なり。靭して碑文に代へ、以て不朽に垂る。

※この上文書は、Googleドライブにて、文字起こし、したものです



徳川光圀公銅像

湊川の戦い後、地元の人々にひっそりと祀られていた楠公の墓が初めに明かになったのは、豊臣秀吉の太閤検地でした。その後、尼崎藩主青山幸利公により五輪の供養塔が建てられました。大日本史を編纂し日本の国柄について深く思いを致していた徳川光圀公は、正成公を非常に敬慕され、元禄五年(1692)に佐々木宗淳を遣わして、建碑費183両余の正成公の墓碑を建立されました


        元治元年(1864) 播州尼崎藩 源朝臣忠興 と、刻されている

        文化十二(1815)源朝臣忠?

        吉田松陰ゆかりの楠公墓所


~ 吉田松陰と楠木正成公~~
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公・文の兄、吉田松陰は、熱烈に楠木正成公を崇拝していました。
松陰は、楠公墓前に4度も参詣しており、参拝の際に買い求めた墓碑の拓本を表装して松下村塾に掲げ、久坂玄瑞、 高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など沢山の門下生に楠公精神を説き尊皇攘夷に駆ける門下生を奮起させました。
また伝馬町の獄で門下生にしたためた遺書 「留魂録」では、巻頭と巻末にそれぞれ、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」 「七たびも生き返りつつ夷攘はんこころ我忘れめや」 と楠公を強く意識した歌を詠みました。
吉田松陰を吉田松陰たらしめたのは、楠木正成公への尊崇の念といっても過言ではありません。

~墓所に参詣した幕末の志士たち~
 幕末には、松下村塾の塾生はのみならず多くの志士達が楠公を目標にし、この楠公墓所を訪れて墓前に額づき、報国の至誠を誓いました。 志士達が楠公に寄せる想いは歌などにも 多く残されています。
その一端を御紹介します。

久坂玄瑞
「湊川にて みなと川 身を捨ててこそ 橘の香しき名は世に流れけん」
入江九一
「桜井の その別れ路もかかりけむ いまのわが身に思ひくらべて」
吉田稔麿
「日頃ながさん私の涙 何故に流るるみなと川」
坂本龍馬
「湊川に詣で  月と日の昔を忍ぶみなと川流れて清き菊の下水」

また、塾生のひとり品川弥二郎は、兵庫津の警備に従事している長州藩士の父に宛てて、「どうか楠木正成公の墓碑の拓本を買い求めてほしい」と書き送った手紙も残されているなど、 墓碑の拓本も多くの人が求めました。
当時巷には浄瑠璃や歌舞伎に楠公の演目が溢れており、楠公精神は、志士のみならず、 忠義と至誠の象徴として多くの人々の心を鼓舞したのです。(湊川神社社務所)



湊川神社・・・もう一度、じっくり参詣してみましょう・・・


追記:記事文言は、案内板、Wikiなどより引用いたしました










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