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2019年2月12日

郡山城跡、追手門、旧奈良県立図書館・・・ 奈良県大和郡山市城内町2

奈良県大和郡山市、続日本百名城 郡山城跡を巡っています
・・・城内の建造物を拝見します・・・


天守台より眺める東方面・・・よき眺めです

法印曲輪跡 ・・・中央、市民会館がある一帯で、一庵丸、常盤曲輪とも呼ばれている。
一庵法印良慶の屋敷があったので法印曲輪と呼ばれている


追手向櫓 追手門
・・・追手向櫓は昭和62年(1987年)に復元・・・


郡山城ならび追手門(梅林門)の由来

本格的な郡山城築城は天正十三(1585)年に入部した豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからである。
その時追手門もこの場所に築かれたものと思われる。
関ヶ原の戦い後、城は取り壊しになり、建物のすべては伏見城へ移された。
元和四年(1618)大阪城主松平忠明が郡山城主となり、その時には十分な建物とてなく、家康の命で、諸門を伏見城から郡山に移したので近世郡山城の偉容は整った。追手門もその一つで、当時この門を一庵丸門と呼んでいた。
享保九年(1724)禁裡守護の大任を帯びて十五万石をもって甲府城から郡山へ移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を替え代々受け継がれたが、明治維新を迎えて廃城となりすべての建物は取り払われてしまった。
その後、市民の復興の声があがり、第一次として昭和58年(1983年)に市民の寄付などにより市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復元された


追手門(梅林門)

城内より

追手門向櫓

追手門(梅林門)を守るための櫓、大手先艮隅櫓と呼ばれていました
下重は四間二尺に五間、上重は、二間四方の二重櫓であったと伝えられています。


東隅櫓と十九間多聞櫓

追手東隅櫓

古絵城図によると櫓は二重で、下重は二間五尺に三間二寸五分、上重は、二間二尺に二間五尺、構造として窓が五ツ、石落としが二ヶ所、鉄砲狭間が六カ所、太鼓も据え付けてあった



旧奈良県立図書館


この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の県庁の南側)に建てられた奈良県最初の県立図書館です。
建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称し、本館は南向きに建てられ、その背後に煉瓦造りの書庫や木造の付属屋が接続していました。
昭和43年(1968)、本館のみがここ郡山城内に移築され、以後、市民会館や教育施設として利用されてきました。
本館は木造二階建、入母屋造、千鳥破風付の主棟と、その両側に平屋建、切妻造の翼部を配した左右対称の構成をとっています。
外観は奈良時代から鎌倉時代の建築意匠が多く採用されています。
内部には胴張りをもつトスカナ式の柱などの西洋に意匠が使われ、小屋内はトラス構造により補強されています。
木骨構造を基本としながらも、和風の外観と擬洋風の内装を施した建物です。
近代において復古的な意匠で設計された和風建築で、数少ない明治期の公共建築物として貴重なものです。


車寄せ
向唐破風造、本瓦葺。胴張りをもつ角柱を立て、虹梁上には東大寺天害門を模した板蟇股をつける


南面

本年、初めての梅の開花に巡り会いました

実に美しい・・・




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