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2019年2月2日

伊居太神社・・・大阪府池田市綾羽 2-4-5

大阪府池田市五月山を巡っています
池田市の古社といえば、伊居太神社です
写真下、地図、赤丸部分です、「P」に「α君」を停め、向かいます

今回は、参道を登っていきます・・・前回は、社務所横から境内に入りました故!
前回は、2014年7月27日
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2014/07/blog-post_28.html


鳥居、石標・・・「延喜式内社伊居太神社」

鳥居・・・「穴織大明神」

二度目の参拝です

二度目ですが、この随身門は、いいすね!

瓦もいいす!

穴織宮伊居太神社の由緒

人皇十六代応神天皇二十年巳酉秋九月日本国に漢の直太祖後漢の霊帝四代の孫阿知使主その子、都加使主十七県の部下を率いて帰化した。そこで天皇の三十七年丙寅春二月天皇思召して天下人民衣服裁縫の術を知らず春夏秋冬の衣服が作れなかった今呉国には立派な縫工女が居ると聞き勅使として阿知使主都加使主に命じて呉国に縫工女を求めようと考えられた。二人は勅使となって呉国へ出発した。先づ高麗国に渡つたけれどそれから先、呉国への道を知らなかったので高麗王に願い久礼波、久礼志の二人を道案内者として選んで頂き漸く呉国に事故もなく到着した。
呉王は工女兄媛弟媛、呉織、漢織の四人の婦女を与へられたのである。今の世に呉をくれと読むのは道案内の久礼波、久礼志の名をかたどったのである二人の功績を忘れないためである。同天皇四十一年春二月阿使主等は呉より筑紫へ帰へり着いた時に胸形の大神が工女達を乞われたので兄媛を差し上げられた残り三人の工女を連れて津の国に帰着し以来呉衣縫蚊屋衣縫と云はれて居る由因は是である呉織は呉の人であり漢織は漢の人である。この二人は呉服の里に居住されたけれど弟媛は目何処に居られたか明らかでない。二十二代雄略天皇の時代にも呉織、漢織、兄媛、弟媛が来日して居るけれど此れは職名であり異人である。 応神天皇の時代の前から衣服裁縫の技が明かでなかった。
この二媛の教えにより天下の婦女が裁縫の術機織の術を教えられ四季の衣春秋の衣服上下の服装を教えられたその効により天皇は宮中に縫殿寮を設け縫部司縫女部を設け二女を祀られたのである。
これより先麻をつむぎ蚕を飼い桑の皮をつむぎ麻の皮から織物を作っていたのであるが二媛の教へにより呉織蜀錦等綾羅錦の衣服が出未るようになったのである。今呉服尺、呉竹、呉藍、生姜等此時に持帰へれるもので呉橘、冴床等もこの頃に呉国から我国に入り呉国の文化が広まった。二媛は一室にこのり、その身に光明がありひたすらに機織と裁縫に従事され百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献されこの地に絹掛の松、染殿井、絹館の里、唐船潭等の地名が残るのも当然のことと思はれる此の二媛が他界されたので仁徳天皇は76年9月8日に衣服裁縫の功績を称えるため祭上の社、祭下の社を建立し両媛の功績をたたへ降世までその功を忘れない様に残され世の人々は文化発祥の神として代々お祀りを続けたのであります。・・・案内板より引用


境内

舞殿?

本殿を望む・・・
・・・手前の拝殿(楼門?)の屋根が痛々しい・・・
・・・前回の訪問から4年が経過しているが、未だ修復されていないのも辛い・・・

拝殿?楼門?

先人曰く、服部清七満朝と思われると・・・

木鼻

木鼻

楼門の隙間より、RX100レンズ差し入れ、パチリです
・・・本殿三社造 千鳥唐破風寄せ造りと称し全国でも唯一の珍らしい構造と・・・

祭神:穴織大神・応神天皇・仁徳天皇

兎の毛通し

仁徳天皇七十七年十一月十三日社殿創建され、それ以来、数々の修復を重ね、正中二年(1325)後醍醐天皇「穴織宮居伊太神社」と命名
暦応二年(1339)足利尊氏により拡張、天正年間(1573~1592)荒木摂津守村重反で焼失、慶長九年(1604)豊臣秀頼片桐且元を普請奉行に命じて社殿を再建、現在に至る










文化九年(1812)


西之口 石工 久兵衛


神輿庫

隙間より、RX100レンズ差し入れ、パチリです
・・・立派な神輿ですが、ホコリまみれです・・残念です!

手水舎

随心門前から参道を眺める

歴史ある穴織伊居太神社・・・少々痛みが激しく残念です・・・四年前も同じ状態でした
修復にも相当な費用がかかるでしょうから、大変です

追記:四年前の備忘録を振り返って読んで、見て・・・
表現とか、全く進歩がないね、ただ、写真はキレイになったかなぁ?・・と、自画自賛です




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