福井県、一乗谷朝倉氏遺跡・・・
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」に、朝倉義景が登場しましたね
その舞台の一乗谷にやってきました
福井市の南東約10キロ、一乗谷にある朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏五代が103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。
武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定されています
複数の「P」が用意されています
復原町並に停めました
たくさん来られていますね
なんといっても一番は朝倉館跡へ
唐門
・・・朝倉義景館に残る唐門は、朝倉義景の菩提を弔うために移築された松雲院の山門で、豊臣秀吉が寄進したものといわれている・・・
朝倉館跡へ
ここには朝倉氏の5代当主、朝倉義景が暮らした館がありました。
四方を堀で囲み、西側の山辺を除く 三方に土塁を廻らせたつくりで、土塁内側の平坦地には10数棟の建物が建ち並んでいました。
室町幕府15代将軍、足利義昭(秋) を迎えた際には、中庭 (花壇)を取り囲む主殿や会所などの南側の一角 で、儀式や宴会が行われました
朝倉館跡を全貌を拝見するには、小高い丘?山へ登ります
眼下に見られる遺構群が、第5代当主の館跡です。
規則 正しく並んだ石の上には建物の 柱が立ち並び、右図の通り建物群を構成しています。
建物の様子については復元模型写真に示すとおりです。
門は西側の正門の他に、北と南側にもありました。
高さ1~4.5m、 幅5~13mの土塁の内側の面積は 6,425mですが、実際の館の敷地としては背後の山の一部および 隣接する湯殿跡庭園も空堀によって区画として取込んでいることから、その部分も含めると 約19,000mとなります。
この館では、義景が永禄11年 (1563)に後の15代将軍、足利義昭を招いて盛大にもてなしたことが、『朝倉亭御成記』など によってわかっています。
その全貌をパノラマ写真で・・・
ズームで・・・
この丘の右手にある「特別名勝 一乗谷朝倉氏庭園 湯殿跡庭園」 ここは、当主館の背後の高台に位置した庭園の跡です。縦長の石を多く 用いた庭石組からは、戦国大名の庭らしく豪壮で力強い印象が感じられ ます。現在は枯池ですが、山際で導水路が発掘され、戦国期には池に水が たたえられていた事が分かりました。
「湯殿跡」の名称は江戸時代の地誌に初めて登場するもので、戦国期に どのように使われた場所かは未だ解明されていません
土塁
五代朝倉義景公 墓所
さぁ、出ましょう・・・唐門を館跡から見る
わずかばかりの谷間の平地に、かつて一万人もの人々が暮らしていたという
戦国大名朝倉氏が栄華を極めた都の跡・・・
平面復元地区へ・・・
凄いですね
・・・この一体が、平民が暮らした遺構
四角い石造りは、井戸跡、厠跡もあります
これは?
下城戸の案内板に・・・「越前焼大甕を30個備え付けた建物もあり」と説明されています
ここのことかなぁ?
さぁ、城下から出ます
下城戸です
東西の山が迫り、幅が約80mと最も狭まった谷の入口に設けられた重要な防御施設がこの下城戸です。
この1.7 km上流に設けられた上城戸と共に城下町一乗谷の中心となる城戸ノ内を区画しています。
この城戸は、基本的には幅約10m・深さ約3mの濠と 幅約15m・高さ4.5mの土塁、そして3.6m離れて道路をさえぎるように食い違いに配置された同様の土塁によって構成されています。
なお、濠は一乗谷川と直接つながっていると考えられます。また、出入り口部には、重さが10トンを超す巨大な石を積み上げており、それらの中には40トンを超すものもあります。
城戸の内側には西の山裾から突出する土塁の南辺に沿って土塀の基礎部と推定される幅約1.5mの小土塁が設 けられており、その間が広場となっていたと考えられます。そして、南には小規模な屋敷が連続して検出されて おり、中には越前焼大甕を30個備え付けた建物もあり、 商人・職人などの町屋が接していたと考えられます。
三方を山で囲まれた守りの面で軍事環境に適した一乗谷
広大な一乗谷朝倉氏遺跡、堪能いたしました
秋晴れの良き日、歩くだけで汗ばむ陽気でした
すばらしい遺構でした
追記:記事の文言は、案内板より、Wikipediaより引用しました
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