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2017年12月11日

生石神社・・・国指定史跡‥兵庫県高砂市阿弥陀町生石171

兵庫県高砂市をブラブラ巡っています・・・

兵庫県高砂市阿弥陀町生石171、生石神社を訪ねます
ここは、国指定史跡‥日本三奇石乃賓殿 鎮の石室・・・で、よくTVで紹介されますね!
前々から、日本三奇石乃賓殿を拝見したく・・・やっと、参拝することができました・・・
国史跡 石の宝殿 及び竜山石採石遺跡・・・と!

石宝殿 生石神社・・・
・・・日本三奇石乃賓殿 鎮の石室とは・・・
神代の昔大穴牟遅、少毘古那の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に 座し給ひし時 二神相諜り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内にエ事 を進めらるるも、エ事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々 を集め(当時の神話 現在の高砂市神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明 けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出束なかったのである、時に二神のたまはく、たとえ 此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのであ る。以来此の宮殿を石乃賓殿、鎮の石室と言はれて居る所以である

・・・鎮の石室(通称、浮石)の容姿と工程 ・・・
鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の宮殿で地中に浮く束酋に横たはりたる姿である。その容積は 三間半(約七m)四方で棟丈は二丈六尺(約六m)、重量は500~700トンと云われて居る。 このエ事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、これを人や動物に踏ませじと 一里北に在る霊峰高御位山(通称、播慶富士)の山頂に猿が先導し牛馬で運び置かれ、その形状から鯛砂利と云はれている。 高御位山と名付けられたのは此の故による。池中の水は霊水に して如何なる干魅に於いても渇することなく海水満干を表はし又万病に卓効有るものと云われ伝へられている

・・・生石神社の創建 ・・・
人皇十代寮沖天皇の御代(西歴九七年)日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、ある夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり依って此所に生石神社が創建せられたのである。以来忽ち悪疫も終息して天下泰平となる
                          ・・・配布パンフより引用・・・

社殿・・・


社殿の下を通りぬけると、鎮の石室へ入ります・・・拝観料100円・・・
入った瞬間・・・おおぉ!! と、誰しもが驚くだろう・・・巨石が!
それも、見事に、鋭角に直角に、削られている・・・
通称、浮石・・・底部となる部分を削った跡 水が溜まっていますね
・・・池中の水は霊水に して如何なる干魅に於いても渇することなく海水満干を表はしていると・・・

岩壁を右に廻ると・・・三角形の岩が現れる・・不思議ですね!!
・・・石の宮殿を造営とある、この部分は屋根か?・・・
右へ右へと回り込み・・・三角と岩壁を・・・



山上公園へ登って上から拝見します・・・
岩を削って造った階段を上り、雑木が生えているが、鎮の石室の形状がよく分かる
反対側から・・・このショット、ちと、恐かったです・・・なにせ、岩しかないのですから・・・
勿論、柵はありますが・・・足下がね‥滑りそう・・・(^^;)
パノラマ写真です・・・クリックしていただければ・・・南方面です
パノラマ写真です・・・東方面です

こうしてみると、この一帯は岩山ばかりのようですね・・・竜山石の採石場か?

下り、東側を降ります・・・手すり、ありません・・・恐いですよ!
社殿前より下みれば・・・鳥居です・・・参道ですね!
「P」前の岩山・・・

その岩山の右手に・・・「竜山一号墳石」が・・・
高砂市教育委員会の調査によれば、山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺身部分のすぐ上部に小形の石室(写真右上) ちと、分かりづらいね・・・m(_ _)m
石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6m、長さ1.18m、蓋と身の高さをあわせると0.62mです。
この古墳は生石神社の境内でもあり、石宝殿と無縁とは思えない位置にあると・・・

・・・国史跡 石の宝殿 及び竜山石採石遺跡・・・

文化庁の資料によると・・・
竜山石と呼ばれる凝灰岩からなる、古墳時代から現代に至るまでの採石遺跡。
石の宝殿と呼ばれる竜山石の岩盤を掘り込んだ遺構がある。七世紀の横口式石槨を製作しようとした跡との説が有力である。現在、石の宝殿は生石神社の御神体となっている。
十二世紀の文献では、「生石大神」と記されて人知の及ばないものとして信仰の対象となり、近世には延べ140名の西国大名らが参詣し、シーボルトが著書『日本』にスケッチを掲載している。
竜山石の採石は古墳時代に始まり、前期古墳の石室材、中期には巨大古墳に採用された長持形石棺の石材、後・終末期には家形石棺の石材となった。古代には京都府恭仁宮の礎石)建物中世では石塔、板碑、石仏などの石造物に、近世には木造建築物の基礎石や、墓標・道標・鳥居などの石材となった。
竜山石は古墳時代から現代まで採石活動が行われており、なかでも石の宝殿は七世紀の採石技術を知る上で希少な遺構で、中世までには生石神社が創られ、信仰の対象となり、現代に至る稀有な例でもある。しかも,採石活動は時代ごとに用途や流通の範囲を変えながら生産・加工され,採石技術の変遷と流通の変化を知る上でも重要であると・・・記述がある
                       



日本三奇石乃賓殿 鎮の石室は、一つの岩山を削ったものであり、勿論、頂上まで岩山・・・
頂上より、この一帯、周り見渡せば、右手の山も岩山・・・

いつ、誰が、なんのために、削ったのか? と、思いを巡らせるのも・・これ、また、楽しい・・・
いやいや、まか不思議ですね・・・(*^_^*)









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