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2017年12月16日

超木岩神社・・・兵庫県西宮市甑岩町5-4

兵庫県西宮市・・・超木岩神社を訪ねます
・・・超木岩神社・・・北の恵比寿として、甑岩・・西宮市では、知られている、神社です
近隣には、甲陽学院高等学校、今は移転した、夙川短期大学がすぐ側に・・・

・・・大鳥居・国旗掲揚台・・・

       ・・・参道・・・

超木岩神社 由緒
今を去る、千年前の延喜式神名帳に大国主西神社が記録されていますが、そちらが当社であろうと云われています。正保年間(西暦1644年頃)に社殿が再建され、明暦二年(西暦1656年)の八月十六日に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称しました。 以後、数回社殿は修復されたましたが、現在の見事な片削破風羽流造のご本殿は昭和十一年に、また、拝殿は昭和五十八年に御造営となったものであります・・・案内より引用


・・・拝殿・・・
沢山の方々が参拝されていました・・・(*^_^*)
・・・本殿・・・
・・・御神体甑岩へ・・・

越木岩神社は境内に鎮座する磐座をはじめ、境内北方にある小高い山・北山にある多くの磐座群を、ほぼ磐座群の南端に鎮座する「甑岩」を通して遥拝するために、神社が建立されたと考えられる・・・Wikipediaより引用

      ・・・甑岩・・・ 祭神 甑岩大神 岩社祭神 市杵島姫大神

甑岩 祭神 甑岩大神 岩社祭神 市杵島姫大神
左前方にある高さ10m、周囲40mの花崗岩の岩は、その形状が酒を造るときの甑に似ているので、甑岩と名付けられています
古代信仰の磐境・磐座をなし霊岩とされ神が鎮まっていると、古来より言われています
今を去る約千百年前(延喜年間)には、この岩より煙がたちのぼり、茅沼浦(大阪湾)や戸田庄(西宮市戸田町・西宮神社が海岸であった頃)入江のあたりからも見えたと伝承されています
室町時代の俳諧の祖、山崎宗鑑が句を残しております 「照る日かな 蒸ほど暑さ甑岩」

石、切り出しの痕跡がありますね・・・

池田備中守長幸家紋


赤丸部分・・・家紋
甑岩、岩社から、さらに山、登ります・・・


・・・雨乞社、北の磐座・・・
・・・遥拝所・・・(場所は、岩社、東側)
神社の北東側に社叢林があり地域の共同所有であったが、50年程前に夙川学院の要望で(磐座の保存及び伊勢神宮遥拝所に配慮すると言うことで)売却された
夙川学院は磐座に配慮して夙川学院短期大学を建築した。すなわち、磐座を保存するだけでなく、遥拝所と伊勢神宮の間を遮る位置に建物は建てなかったのだが、経営難で、夙川学院は不動産業者に土地を売却してしまった。不動産業者は集合住宅を建築するに当たり磐座を破壊撤去し、遥拝所の伊勢神宮の方向の位置にも建物を建設するとしており、神社側は磐座の保存等を働きかけている。そのため署名を不動産業者に提出するなどしているが、業者側は要望をすべて拒否していると・・・Wikipediaより

パノラマ写真・・・絶景なのだが・・・
・・・下部の造成地が、集合住宅の建設地か! ここにマンションでも建てれば、遥拝は建物越し・・・北の磐座の保存も、難しいね~いやはや、困ったことですが、磐座も、市・業者にとっては、ただの石、岩なのです・・・う~ん? 


貴船社・・・祭神:貴船大神・龍神 水に縁ある諸業守護し給う
下山する際に発見・・・どこか、怪しげな森を連想させるような樹・・・
ちと、アップで・・・なんという樹名でしょうか?

      ・・・その側にも・・・



拝殿横には・・・大阪城築城の残石が!
・・・右の御影石の全面に刻印があります 東は池田備中長幸(岡山松山城主六万五千石)が使用した刻印で、備中守は大阪城修築工役(元和六年1620年~艦影五年1628年)に天守台を始め、本丸や二の丸等への石垣を築いた大名です
また、西側は鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀城主三十五万石の大名の刻印石です
採石地不明といわれたところ、当境内より発見された数個の刻印石により、当社地及び付近一帯が採石地であったことが判明しました・・・案内板より引用
東は池田備中守長幸(岡山松山城主)が使用した刻印
鍋島信濃守勝茂(肥前佐賀城主)の刻印


兵庫県指定天然記念物 超木岩神社社叢

・・・社務所・・・

・・・相撲場・・・泣き相撲・・・
・・・泣き相撲が、毎年秋季例大祭行事として開催され、お子様を授かったことに感謝すると共に、健康に育つよう祈願する行事です。神聖な土俵に素足をつけることにより災いや悪霊を払いのけると伝えられています。
当社では古くから奉納神事として相撲が行われており、現存する約200年前(天保2年)の絵馬にも描かれており、現在に至るまで当社伝統行事として行われております
・・・神社案内より・・・
・・・舞台・・・

・・・力石・・・
この石は大正年間まで、村人が力比べに用いていた石と・・・現在は危険なため禁止!

しかし、北の磐座付近から眺めは、遠く生駒山、阿倍野ハルカスが望め・・・よき景色ですね・・・

私にとっては、若い時から、存在は知っていましたが、数十回、側を通ったことか・・・(>_<)
しかし、備忘録を記するとき、知った問題・・・いやいや、神社側にすれば、困ったことですが、神社の北東側に社叢林があり地域の共同所有であったのを、50年程前に売却したことが発端ですから、今となればね~難しいですね・・・私感です




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