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2017年12月9日

高砂神社・・・兵庫県高砂市高砂町東宮町190


兵庫県高砂市をブラブラ巡っています・・・

高砂と云えば・・・「高砂や~この浦舟に帆をあげて~」ですよね・・・
ここは、兵庫県高砂市高砂町東宮町190、高砂神社です・・・

大きな、コンクリート製の鳥居です

・・・神門・・・七五三です・・・(*^_^*)

・・・高砂神社略記・・・
主神 :大己貴命 配祀:素盞鳴命   奇稲田姫命
‥・神功皇后が外征のとき、大己貴命の神助を得て敵を平らげられた。帰国の途中、この地に船を寄せられ、国家鎮護のため、大己貴命をまつられたのが高砂神社のはじまりです。その後、天禄年間(970年)~(972年)国内に疫病が流行し、庶民が苦しんでいた時、神託によって素盞嗚命、奇稲田姫命をあわせまつったところ、疫病がたちまちおさまったので、庶民は喜んでお礼参りをした。文禄元年(1592年)豊臣秀吉は、朝鮮出兵のときこの神社に参拝し戦勝を祈願したと伝えられる。
池田輝政をはじめ、歴代姫路城主は社領を寄進し、特に本多忠政は尊崇熱く、輝政によって他に移されていた社殿を旧社地に再建し、にぎやかな遷座祭を行った。
天樹院(千姫)をはじめ、武将や貴人、そのほか学者、詩人、歌人、俳人が多くこの神社を歴訪している。江戸時代の画家、森狙仙筆「神式図」、森周峯筆「関羽図」、曽我蕭白筆「武者図」をはじめ、現代では棟方志功筆「鯤魚之図」等、すぐれた絵馬も多く奉納されている
                      ・・・案内板、高砂神社より一部引用・・・


・・・拝殿・・・
拝殿内・・・左右に絵馬が・・・
鬼瓦・・・いや~、見事ですね!!

三代目、相生松、保存屋 「霊松殿」

神功皇后の御世に大国主命を祀り高砂神社が創建されてまもなく境内に一本の松生い出たが、その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥の二神が現れ「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道示さん」と告げられた、此より人は相生の霊松と呼びこの松を前にして結婚式を挙げるようになった・・・案内板より一部引用

天然記念物 高砂之松


五代目 相生松
・・・相生というのは、赤松と黒松との合成を意味する。黒松が主幹となって、赤松が枝をのばし、両松がその基部でタテにくっついている珍しい植生の例であると・・・
謡曲「高砂」と高砂神社
・・・謡曲「高砂」は、世阿弥作と伝えられ、謡曲百番集では第一番の曲名 謡曲全体の代表作のように扱われている・・・案内板より引用


尉姥神社
祭神:伊弉諾尊、伊弉冊尊
・・・「お前百まで、わしゃ九十九まで」うたわれています 尉と姥は平和と長寿の象徴であります


・・・御神木いぶき・・・樹齢千年を超えると!
阿蘇の神主友成が上京途中に高砂の浦に立ち寄り、その時友成が杖にしていた木を地面につきさしていたところ芽をふき、現在の「神木いぶき」として境内にその姿をとどめている‥

・・・能舞台・・・

手水舎・・・現在は使われていないようですが・・・水の出口が龍ではなく、鯉ですね!

・・・高砂城趾・・・
慶長五年(1600)に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いた後、慶長十七年(1612)に播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた・・・と、 ・・・案内板より引用


工楽松右衛門・・・寛保三年(1743)~文化九年(1812)
説明文に・・・・高砂は小さな町でである この小さな町から「後の世のため」に尽くした工楽松右衛門という人物がでた
町の大小は関係がない 志があるか その志が広く大きなものであるかどうか そして 志を実現するために努力しているかどうか それが大切ではないか・・・
播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功し、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった・・・案内板より一部引用

・・・この説明文を読みながら、・・・一人うなずくおっちゃんがいました・・・

高砂神社・・・相生松 御神木いぶき・・・見応えがありますね!

・・・「お前百まで、わしゃ九十九まで」・・・
・・・夫婦円満で、お互い周りに迷惑かけないで、生きていきたいものです!



参拝日:2017年11月24日



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