今年、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」が放送され、前半に登場した有岡城、荒木村重
その有岡城が位置する伊丹市は、スカイパークでの飛行機撮影で、よく訪れる地でもあります
そして、伊丹免許更新場がありますので、数年に一度は来ますね
今回は、家内の更新手続きできました
そして、更新の間、私は有岡城跡、散策です
近々では2026年7月
伊丹スカイパークで、伊丹・有岡城 映画「黒牢城」パネル展を拝見しました
「横断幕」がありますね
以前、あったかなぁ?横断幕は、伊丹市に本社を構えるTOYO TIRE株式会社からの寄贈により、有岡城跡史跡公園に設置したと‥伊丹市
陸橋を挟んで、東側が「有岡城主郭部」です
まずは、石垣、建物礎石が残る西側へ
国指定史跡 有岡城跡
昭和五十四年十二月二十八日 指定
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一・六キロメートル・東西八〇〇メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
謀反を起した村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
天正八年、池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
平成四年三月 伊丹市教育委員会
有岡城主 荒木村重荒木村重は、幼名は十二郎、 後に弥介と改めます。
父義村の代から池田城主 池田氏に仕えたとされています。
織田信長の上洛後、 池田勝正は、伊丹城主 伊丹親興・芥川城主 和田惟政とともに「摂津三守護」となり、村重は勝正の家臣として、池田家中において徐々に力をつけ、池田氏の内 紛に乗じてついに頭角を現します。 元亀元年(1570) 池田知正らとともに勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山 (茨木市)の合戦で敗死させています。
元亀4年(1573) 逢坂(大津市) にて細川藤孝とともに信長に対面し、その後は信長を主君と仰いで、将軍足利義昭を槇島城 (宇治市) に攻撃する際にも従っています。
この時の忠節を賞賛されて、 信長より摂津国を一職支配する「摂津国「主」に任じられます。
天正2年(1574) 11月15日 伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城します。
以後ここを居城に定め、 有岡城と改名しました。信濃守村重は、天正3年、 摂津守になります。
有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として天正3年10月 播磨へ出兵し、翌年4月は光佐 (顕如) が立て籠も る石山本願寺 (大阪市) 包囲に加わります。
天正5年には、羽柴秀吉とともに紀伊の雑賀 (和歌山市) を攻めています。
天正6年、足利義昭や毛利輝元に通じて信長に反した別所長治を三木城に攻めます。
しかし、同年10月、 突如、村重も信長から離れ、 石山本 願寺とも盟約を結びます。
その情報は安土城へ届き、 信長は、村重を思い留まらせるために明智光秀ほか近臣を有岡城へ遣 わしますが、村重の決意は変わりませんでした。
村重とともに毛利方についた御着城主小寺政職でしたが、やはり信長方へ戻るため、 村重を説得しようと、家臣の黒田官兵衛を有岡城へ遣わします。
村重は、このままでは信長方となる官兵衛を城内に留め置きます。
11月、 信長は安土城を発ち、 古屋野 (昆陽野) の陣に入りま す。12月には主力部隊を塚口に置き、有岡城を総攻撃します が落ちません。そのため、 有岡城を取り囲むように付城を築 くよう指示します。
天正7年9月、 村重は数名の家臣とともに、 尼崎城主である嫡男 村次のもとに移り、 本願寺・雑賀・毛利方へ援軍派遣を要請しますが、 村重が望むように援軍は来ません。
有岡城の町が信長方に取られ、10月、上﨟塚砦より信長軍が侵入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくな ると、 11月、 城は落ちてしまいました。 村重父子は尼崎城が
落ちると花熊城 (神戸市) へ移り、その後西走します。
村重は、尾道にて入道し、「道薫」と名のります。信長の死後尾道より堺に移り住みました。
天正14年(1586) 堺にて没したとされています。
平成26年2月 伊丹市教育委員会
全体
礎石建物跡
茂みの上は土塁と思われます
井戸跡
有岡城石垣
転用石か?
ここにも井戸跡
主郭に移動します
国指定史跡 「有岡城跡(主郭部)伊丹は摂津国のほぼ中心にあり、 山陽道や有馬道が近く、 古代から交通の要衝です。 室町時代、 伊丹氏が居を構えていた地です。
天正2年(1574) 織田信長の配下荒木村重が伊丹城を攻撃。
11月、 伊丹氏を追放し、入城後 「有岡城」と改名します。 村重は伊丹台地の地の利を活かし、台地東端に城 (主郭部)、 その西に城下町(侍町 町人町)をもつ惣構の城に整備します。 惣構の北・西・南端には外城 (砦) が配され、 惣構内には幾重にも堀が掘られていたことが近年の発掘調査からわかってきました。
有岡城主となった村重は摂津守として活躍しますが、天正6年秋、信長から離反します。
信長軍との戦いで侍町は焼かれ、翌年11月落城。 天正8年、 信長の乳兄弟である池田恒興 長男元助が入城、 伊丹城と戻します。
しかし、本能寺の変を経て、 天正11年、 伊丹は豊臣領となり廃城となります。 大坂の陣後は、 徳川幕府領となり、江戸積酒造業を基幹産業として、 在郷町山陽道(西国街道池田·茨木
「伊丹郷町」として発展します。城跡は江戸時代の絵図に 「古城山」 等と記載されています。
明治時代、 鉄道 停車場 (駅) や道路建設に伴い、 城跡の大半が削平されます。 昭和50年(1975) 以降、 市が実施した発掘調査により、堀や土塁内の石組み、建物・庭など貴重な遺構が残されていることが判明。 史跡整備後、平成6年(1994) から有岡城跡公園として 活用されています。
村重は、池田家臣の頃より堺衆との茶会に参加しています。 元亀2年(1571) 2月、津田宗及に 招かれ、池田紀伊守正秀と参加した茶会が初見です。 村重は「荒木高麗」と呼ばれる茶碗をはじめとする名器を持つ茶人として有名ですが、小鼓を打ち、能や狂言も嗜むなど、多彩な文化人です。
元亀4年(1573) 3月、村重は細川藤孝と共に、京へ進軍する信長を逢坂 (現大津市) で迎えます。 そして、村重は信長から「摂津国一職」 を与えられます。 天正2年(1574)3月、村重は正倉院御物の香「蘭奢待」 を切り取る役目を信長の側近や重臣とともに務めています。 7月、 本願寺と戦い、 そして11月、伊丹城を落とし、 入城し、 「有岡城」と改名、 惣構の城に大改造を始めました。
翌年6月、薩摩 (現鹿児島県) から伊勢詣へ向かう道中、 有岡城近くを通った島津家久は、 侍まで 動員して城の改修工事をしている様子に驚いています。 惣構の城が完成したのはその2年後、天正 5年です。 同年11月に有岡城を訪れ、 「甚だ壮大にして見事なる城」 と書き残した、 宣教師ルイス・ フロイスはどのような城を見たのでしょう。 侍だけでなく、町人たちも住む町を持つ先進的な城、 それが有岡城でした。 村重は信長の安土城より早く城下町をもつ城を完成させていたのです。
天正6年10月、村重は本願寺顕如から、百姓は村重に服すべきとの確約を得たことから、百姓を味方に することができました。 百姓たちは六甲山地の各所に小屋を設けて立て籠もり、 有岡城や三木城へ補給線 を維持しました。 戦は侍だけのものではありませんでした。 村重は、 有岡城惣構内に居る町人、そして 一緒に戦っている百姓のことも気にかけながら、 尼崎城へ移り、 勝機を得ようとしたと考えられます。
天正7年(1579) 11月、 有岡城は落城し、信長によって多くの人が殺されました。 しかし、 信長軍に焼かれずに済んだ町人町を基盤とし、伊丹が復興を遂げ、大きく発展していくのは、村重によって守られた町人や百姓がいたからではないでしょうか。
官兵衛ゆかりの藤
天正6年(1578年)、 織田信長に反旗を翻 した荒木村重を説得に黒田官兵衛が有岡城 に赴きますが、 村重は諸事情を考慮し、やむ なく官兵衛を幽閉します。その間、 官兵衛が力 強く咲く 「藤の花」を見て、生きる勇気を得たという逸話は有名です。
この物語を後世に伝えるため、官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹しています
その藤棚から石垣を眺める
ここは、JR西日本 伊丹駅
堀
堀をぐるっと歩きます
ちょくちょく訪れる伊丹市
飛行場もある地に遺跡あり、城あり、酒蔵あり 盛り沢山な地です
よきところです
追記:記事中説明文言は案内板より引用いたしました


















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