手前左から御門橋・表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓
史跡広島城跡
史跡 広島城
別形
史跡広島城跡二の丸表御門 (復元)
平成3年12月 広島市教育委員会
表御門
平櫓に入ります
多聞櫓の中を歩きます
鯱鉾
太鼓櫓
多門櫓内を戻ります
広島城二の丸の仕掛け
平櫓の内部
畳が敷かれている
城内で畳が敷かれているのは、あまり見かけないが・・?
史跡 広島城跡 二の丸跡
中御門跡
本丸下段へ
史跡 広島城跡
日清戦争時本丸内に大本営を置いた跡
さぁ、天守閣です
パンフより天守閣の図を見つけました
う~ん? 銘、忘れた!
天守、五層から眺める広島市
エディオンピースウイング広島と広島グリーンアリーナですって!
天守閣入口付近、眺めれば••
下城です
大本営跡付近より見る天守閣
石垣の間からたくましく伸びる木
広島合同庁舎
二度目の広島城
よ~く、覚えているのです
前回、日本の百名城を巡っている若者と知り合いました
史跡広島城跡
史跡 広島城
史跡 広島城跡 昭和28年3月国指定
路指定地 本丸跡。二の丸跡、堀およびその周辺
名鯉城
別形
状太川河口の低温なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
1589年(天正17年) 毛利輝元 築城工事に着工
1591年(天正19年) 毛利輝元 入城
1600年(慶長5年) 福島正則 入城
1619年(元和5年) 浅野長晟 入城
1871年(明治4年) 廃藩置県により本丸内に広島県の役所が置かれる。
1894年(明治27年) 日清戦争時本丸内に大本営が設けられる。
1945年(昭和20年) 原爆により天守閣、 太鼓橋、 表御門などすべて崩壊。
1958年(昭和33年) 現在の天守閣再建。
1958年(昭和33年) 現在の天守閣再建。
史跡広島城跡二の丸表御門 (復元)
規模
桁行 7.64m 梁間 4.85m、 軒の出 1.27m、 軒高 7.03m、 棟高 10.61m 構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、 本瓦葺、 軸部真壁、 軒塗籠、 両側面一間庇付
表御門は天正期末 (16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失まで の約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、 平成3年に完 成したものです。
この平成の復元では、昭和9年に当時の陸 軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、 発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存し た表御門の礎石 (柱下の石) 上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。
写真は焼失以前の表御門
平成3年12月 広島市教育委員会
表御門
平櫓に入ります
多聞櫓の中を歩きます
鯱鉾
鯱瓦
大棟の両端につける飾り瓦で、頭は竜もしくは虎、身体は魚の姿をした想像上の生物の形をしています。 古代寺院建築の鴟尾が起源とされ、16世紀後半の安土城以降、 城郭の屋根に上げられる ようになったと考えられています。二の丸復元建物で用いられた瓦は、避雷針としての機能をもっており、通電用の銅線が取り付けられています。
二の丸復元では、古写真から形態を分析し、形態が似ている大阪城一番櫓に倣って設計されました。
太鼓櫓
江戸時代には、ここ太鼓櫓、この2階に時を告げる太鼓が置いてあり、夕太鼓を打ち鳴らして城門の開閉や藩士の登城の合図にしていました。 たまに、 太鼓の音が小さかったり、 時刻を間違えたりして注意されることもあった ようです。
広島城二の丸の仕掛け
Traps and Devices Inside Ninomaru at Hiroshima Castle
正攻法で、橋から攻める相手には、表御門の櫓の上などから火縄銃や弓矢で攻撃します。
堀を渡る相手には、櫓や塀にある△や口の形をした 「狭間」 と呼ばれる穴から、 火縄銃や弓矢で 攻撃します。
二の丸の西側半分は建物が無く、 空き地となっているため、 戦時等の際は兵士の集合場所と することができます。 また、南側は石垣が高く、その上に櫓があるため堀の外から二の丸内の 兵の動きを窺えないようになっています。 反対に、北側は石垣が低くなっており、 万が一、二の丸 内に相手が侵入しても、 本丸から攻撃を仕掛けることが可能です。
枡形
この部分は、城門の内側もしくは外側に設けられる 「桝形」 と呼ばれる小さな区画で、 土橋を 渡り本丸へ侵攻する相手を足止めし、三方から総攻撃を仕掛けます。 かつてはここに門柱や扉に 鉄板を打ち付けた鉄門の本丸中御門があり、 戦前まで残っていましたが、 原爆により焼失して います。 その時の熱で変色した石垣を現在も確認することができます。
平櫓の内部
畳が敷かれている
城内で畳が敷かれているのは、あまり見かけないが・・?
史跡 広島城跡 二の丸跡
この石垣と建物に囲まれた二の丸は 馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世 城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。
この郭は、毛利時代(十六世紀末) に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える 構造としており、防衛機能を考慮した ことがうかがえます。
郭内には、表御門、太鼓櫓など近世 初期の建物が残っていましたが、原爆 により倒壊、焼失しました。現在の建 物は、築城四百年を契機に、江戸時代 の姿に復元整備したものです。
広島市教育委員会
本丸下段へ
史跡 広島城跡
史跡 広島城跡
指定 昭和二十八年三月三十一日
史指定地: 本丸跡、二の丸跡、鳩およびその周辺
別名: 鯉城,在閒城
彩武: 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城
一五八九年(天正十七年) 毛利輝元楽城工事に着手
一五九一年(天正十九年) 毛利輝元入城
一六〇〇年(慶長五年) 福島正則芸備四十九万石を領、翌年三月入城
一六一九年(元和五年) 浅野装備四十二万石余を演し、八月入
一八七一年(明治四年) 廃藩置県により本丸内に広島県の役所を置
一八九四年(明治二十七年) 日清戦争時本丸内に大本営を置く
一九四五年(昭和二十年) 原爆により天守閣・太鼓櫓・表門などすべて崩壊
一九五八年(昭和三十三年) 現在の天守閣再建
日清戦争時本丸内に大本営を置いた跡
さぁ、天守閣です
パンフより天守閣の図を見つけました
う~ん? 銘、忘れた!
天守、五層から眺める広島市
エディオンピースウイング広島と広島グリーンアリーナですって!
天守閣入口付近、眺めれば••
下城です
大本営跡付近より見る天守閣
石垣の間からたくましく伸びる木
広島合同庁舎
二度目の広島城
よ~く、覚えているのです
前回、日本の百名城を巡っている若者と知り合いました
で、意気投合して、天守閣、堀周りを一緒に歩いた思い出があります
たしか、青森の若者
なんと、姫路城へは行っていない!
うん?
なんと、姫路城へは行っていない!
うん?
それはないよ!
と、言って笑いあえたのをよ~覚えています
と、言って笑いあえたのをよ~覚えています
どうしているかなぁ?
天守閣内部・付近の写真が少ない!
訳は、中学生?の修学旅行がわんさかいて、やかましいし、各層も天守五層なんか、満杯でした
天守閣内部・付近の写真が少ない!
訳は、中学生?の修学旅行がわんさかいて、やかましいし、各層も天守五層なんか、満杯でした
そうそうに引き上げたわけです
まぁ、そういっても、好天の広島城、よかったです
と、いうことで、嫁も満足したようです
と、いうことで、嫁も満足したようです



























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