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2024年7月1日

帰路の途中、立ち寄ってみました「史跡 赤穂城」

2012年9月、α君が我が家に来て、初めてと云ってもいい長距離ドライブ
たしか、290kmは走ったかなぁ?
そのとき立ち寄った「史跡 赤穂城」

今回は、岡山から帰路の途中、それも17時ごろ
ちょろと、寄ってみようということで、やってきました「史跡 赤穂城」
「P」は閉まっているし、路駐も長い間できないし・・・
大手門から入りますが、ほんのさわりだけです

赤穂城跡
国指定史跡 日本100名城
浅野長直によって慶安元年(1648) から13年の歳月をかけて築かれた赤 穂城は、近世城郭史上非常に珍しい 変形輪郭式の海岸平城です。 藩の家臣で軍学師範の近藤正純が設 計し、そのうち二之丸門虎口の縄張 は、当時の著名な軍学者であった山 鹿素行の手が加えられたと伝えられ ています。城地は東に千種川、南は 瀬戸内海に面し、清水門の南にある 船入は船が出入りできるようになって いました。昭和46年に国史跡指定を 受け、平成14年には本丸庭園と二之丸 庭園が国の名勝に指定され、平成18年には「日本100名城」に選ばれました。 本丸内には刃傷事件後に大石内蔵助らが大評定に集まった御殿の間取り が復元されており、天守台からは本丸内は城内が一望できます。


三之丸大手隅櫓



赤穂市指定有形文化財 近藤源八宅跡長屋門
近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職 にあった。源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあた り、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張 なわば
り設計を行った。
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親し まれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かい にあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それ ぞれ下級武士の住宅として使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、一八世紀以降に建 て替えられたものと推察されるが、当時は総長二一間 半(約四二・三m)の長大な長屋門であった。
城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成一一 年三月に解体復原整備が完了した。
入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせている。
簀子野地天井は建築当時の姿を保っており、屋外ある赤穂旧上水道の汲み出し枡とともに人気が高い。
赤穂市教育委員会



大石邸長屋門
この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の
の一家三代が五十七年にわたり た大石屋敷の正面門長屋である 
門口約二十六・ハメートル奥行約四・ハメートルの建物で、 屋根瓦には双ッ巴の大石家の 定紋がついており、元禄の昔 に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となってい る。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元 禄十四年三月主君の刃傷によ る江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年 国の史跡に指定された。
更に昭和三十七年に屋根の 大修理を行ったが老朽甚だし く、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、 「総工費三、一三八万余円をかけ て全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した 赤穂義士会



立派な門ですね

はい、ここまでが限度でした
天守跡公園には時間的に無理で、帰ります

帰り、お堀を覗くと、亀、鯉がいるが、水、濁っていて汚いね
亀が多いということは、生態系はに在来種は少ない、そして鯉が多いと水は濁る!


帰路とはいえ、「史跡 赤穂城」に来ました
今度、ゆっくり石垣など拝見いたしましょう

しかし、我が家からはルート的にも中途半端な目的地になるので、いつになるかなぁ?

















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