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2020年2月29日

中井権次一統の足跡 大歳神社、兵庫県丹波市山南町若林

中井権次一統の足跡を巡っています 
中井権次一統作品集 No54 大歳神社、兵庫県丹波市山南町若林です

この大歳神社は、訪れること、3回目です
なぜか、本殿、向拝の撮影が私にとって難しいかったのです
そして、脇障子の背面に刻銘があるのを、撮影できなかった、いや、知らなかったので・・・
さぁ、撮っていきましょう……


社頭です

境内

拝殿

拝殿梁上の龍

ズームで・・・

背面に「丹波宮津 九代目 彫刻師 中井権次 元丹波柏原」と、ある
そう、九代目、青龍軒中井貞胤(喜一郎)ですね

神額の後ろの梁上は、鳳凰か?

本殿を・・・

向拝
・・・・見事です、兎の毛通し、獅子噛、龍、持送り、木鼻、そして、梁の彫刻も・・・


       左脇障子

これです・・・1~2回、見逃していました・・・左脇障子、背面
「柏原町住人 當社彫刻師中井青龍軒」と、よめる
青龍軒の誰か?探りたくて左側にも、文字があるか、そう、SONYーRX100でも、ズームレンズを望遠鏡代わりして、見てみましたが、結論、わかりません

資料によれば・・・
五代目青竜軒中井橘正忠(1818没)、六代目青竜軒中井権次橘正貞(1791~1855没)の合作とある


       右脇障子・・・鷹と猿

右側から、200mmのズームで・・・(NikonD300S+55-200mm)

獅子噛

兎の毛通し

木鼻


妻飾り

桁隠し

社殿前の狛犬


中井権次研究家の岸名先生に伺った話では、この大歳神社は、四代の中井権次が彫刻に携わっているとのこと・・・
拝見できませんが、下写真の建物(曳山庫)の曳山には、八代目・・・青竜軒中井権次橘正胤(1854~1928没)の銘があるとのこと・・・

祭りの際、お出ましになると思いますので、ぜひ、拝見したいものです
なかなか、魅力的な、大歳神社でした

境内社は、べっとページを作成します

追記:サブ機、NikonD300S+55-200mm、初登場です






2020年2月28日

碑文、川代景勝の詩 兵庫県丹波市山南町上滝川代公園

川代恐竜街道・・・県道77号線
いまは、川代トンネルが完成して、川沿いを走る区間が短くなりました
トンネルが無い時代は、道幅狭く大型も通行するので、離合の難しいところもあったと記憶しています

この街道は、丹波竜発見で、知られた場所です
なんども通過しましたが、碑文「川代景勝の詩」は知りませんでした
ちと、休憩で「α君」を降りて川沿いを歩いてみました

丹波市山南町上滝川代公園 碑文「川代景勝の詩」

享保六年(1721) 京都儒者、伊藤 東涯
和田儒者 植木桂谷ヲ訪ネル 下向ノ旅路ニテ詠ウ 


享保六年(1721)に伊藤東涯が川代を訪れた時に詠んだ景勝の歌が碑に刻まれています
伊藤 東涯・・・寛文十年(1670)~- 元文元年(1736)は、江戸時代中期の儒学者
母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる・・・Wikipediaより引用

碑文「川代景勝の詩」を読み説くことは、私には無理ですが・・・
冒頭には、篠山を出発したようで・・・両岸皆峭壁、切り立った険しい崖とあります
まさしく江戸時代の街道もいまにまして、大変な道であったことが想像できます


流れる川は、篠山川・・・

あいにく天候は今一ですが、景色は最高です


この川は、ポットホール、所謂、甌穴を所々見かけます
写真下部中央に・・・甌穴とは河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴・・・







この川代恐竜街道は桜の名所でもあります
次回は、桜の咲く時期に、訪れてみましょう~







2020年2月26日

企画展の見学の折、丹波市柏原の町を散策しました・・・そして、パチリです

丹波市立柏原歴史民俗資料館にて、企画展 中井権次と上田柏山「彫刻下絵の世界」が開催されています
その企画展を拝見する際、久しぶりに柏原町を散策してみました

まずは、出発地、かいばら観光案内所
そして、木の根橋

丹波市役所 柏原支所


       田ステ女石像


本町に生まれた田ステ女(1633~1698)は、6歳の時に詠んだ句と伝えられているのが・・・
「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」


柏原藩陣屋
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2020/02/683.html



県指定文化財 旧氷上高等小学校校舎


明治18年(1885)に現在地で建設された。
その後氷上高等小学校、郡立柏原病院の建物となり、同42年(1909)郡立(大正11年県立)柏原高等女学校校舎として使用された。
その間、多くの卒業生や著名な人物を輩出した。
校舎は木造2階建てあり、屋根は寄棟造で、桟瓦葺、外壁は下見板張りで、壁には胴蛇腹、軒蛇腹をつけ、外に面する窓はガラスの上下窓で、窓台とモールディング付き窓枠になっている。
玄関ポーチは2階建で西正面中央に位置し、1階は吹放しのポーチ、2階は室内である。
屋根は切妻造で、正面側をペディメントとする。柱は石造の柱礎の上にたち、円柱で中間部に繊細なフルーディングをつける。柱頭はイオニア風の形態である。
明治初期に建設された擬洋風建築にみられる形式がよく保存され、近代初等教育施設の建造物として兵庫県下では最古の部類に属する貴重な校舎である。


戻ってきました・・・木の根橋(前出の反対側)

県指定文化財 大けやき(木の根橋)

樹高22m、目通幹囲6mのけやきの根が、幅6メートルの奥村川をまたいで自然の橋を形づくっている
けやきの大樹の奇形は珍しく、その形状から「木の根橋」と呼ばれ、四季の変化の美しさとともに柏原のシンボルとして親しまれている
最近の調査で推定樹齢千年と称されるようになったが、現在でも樹勢は極めて盛んである


皇大神宮

拝殿ガラス越しにパチリ・・・
両脇に座する狛犬・・・中井権次一統の足跡、中井権治橘正次の作なのです
2018年7月23日、下絵展で、間近で拝見しました
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2018/07/blog-post_23.html


本殿


中井権次一統を知ってから、幾度となく訪れる丹波市柏原町・・・
そして、中井権次の情報収集の場所、「かいばら観光案内所」
ほんと、お気に入りの町です・・・
これからも何度も訪れることになるでしょう・・・






2020年2月25日

桜の開花です 今朝のウォーキングで、パチリです

春の訪れの雰囲気が、日増し増えてきます
今朝のウォーキングは、Ricoh-GX200をお伴にして歩いています

河津桜?と思いますが、開花です

ちと、暗めで、拡大すると、ノイズが目立ちます・・・

いまが見頃の梅です


毎日のウォーキングが忙しくなります
しかし、写真撮影、上手になりませんね! 



2020年2月24日

夕焼けで染まる機体、JAL JA848J・・・飛行機撮影です

この日は、雲少なく、快晴の日の夕焼けは実に美しいです
JAL JA848Jの白い機体も、黄色に染められていきます
撮っていきましょう!・・・伊丹スカイパーク中央です


写真はlivedoorブログで・・・

http://luuku2009.livedoor.blog/archives/5530126.html






2020年2月23日

中井権次一統の足跡 柏原藩陣屋、 兵庫県丹波市柏原町柏原683

中井権次一統の足跡を巡っています 
丹波市立柏原歴史民俗資料館にて、企画展 中井権次と上田柏山「彫刻下絵の世界」が開催中
そのなかで、柏原藩陣屋の玄関を飾る彫刻の下絵を拝見しました
その彫刻が、中井権次正貞の作とありました

丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面が、柏原藩陣屋跡ですので、早速拝見します
何度も訪れています、しかし、中井権次一統の足跡と知れば、違った眼でみてしまう私がいます


柏原藩主織田家旧邸長屋門から入ります

国指定史跡 柏原藩陣屋跡

正徳4年に造営された陣屋は、文政 元年(1818)火災にあいました。
その後再建されたものが現存する陣屋で、桧皮葺の玄関と桟瓦葺寄棟造の表御殿の一部が残っています

桧皮葺の玄関の彫刻が、中井権次正貞の手によるものです

入母屋蟇股(渦)

桁虹梁に彫られている渦、岩亀彫、虹梁(渦、若葉)

上から懸魚(雲)、大瓶束(棟束に富士雲)、蟇股(柏原織田家の家紋と波)

桁隠し(揚羽蝶紋)


木鼻(渦)

玄関・・・入って観ましょう

内部は撮影禁止なので、玄関先からパチリです!

蟇股(柏原織田家の家紋と波)裏側

右手から・・・

県指定文化財 柏原藩主織田家旧邸長屋門

陣屋の表御門。火災を免れたため、正徳四年(1714)陣屋造営当時のものが現存しています。
間口13間1尺2寸、奥行2間の単層長屋門形式で、屋根は入母屋造桟瓦葺平入。
門の両側が長屋のように仕切られているためこのように呼ばれています。
門戸を挟んで、正面左手(北側)に番所・土間、右手(南側)に馬見所・砲庫があり、門扉部と馬見所・砲庫などはほぼ原形を保っていますが、北側の番所部分は北端の柱筋や壁は改変を受けています。
また、馬見所は現在、板敷ですが当初は、番所と同様に畳敷であったと考えられます。


陣屋玄関からの長屋門

陣屋は、織田信休が移封後約20年を経た正徳4年(1714)に造営したものです。
当時の陣屋は、約20000㎡の敷地に表御殿、中御殿、奥御殿のある主屋や台所、幕末には藩校の崇広館などが存在しました





柏原藩について・・・
柏原藩主の系統には、前期・後期に分ける織田家の二時期があります。
この陣屋を藩邸としたのは、後期柏原藩です。
後期の柏原藩は、織田信長の次男信雄の子孫である織田信休が元禄八年(1695)大和国松山藩(現奈良県宇陀市)から移封して始まりました。
領地は丹波国氷上郡の内44ケ村、何鹿郡(現京都府綾部市)の内8ケ村、天田郡(現京都府福知山市)の内5ケ村でした。信休以降十代続き、幕末・廃藩置県を迎えました。
陣屋は、背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地しており、当時の城下町では最高所に位置します。陣屋自体は高低差のほとんどない平地に立地します。
陣屋の規模は東西130m、南北160mで、大内山に接する南東部の一角が突出しており、自然地形を巧みに取り込んだ池泉を伴う回遊式の庭園が築かれていました。
防御施設としては、石塁の上に高塀を巡らすだけで、堀や土塁は築かれていませんでしたが、陣屋の正面付近には桝形等が備えられ、周囲は表御門にあたる長屋門をはじめ七ケ所の門が設けられていました。
陣屋内には表御殿、中御殿、奥御殿からなる主屋、藩政を執行する御用所、北西隅には藩校の崇廣館(安政五年造営)が設けられ、この他に下台所、厩、土蔵、作事所等の建物や、北東隅には稲荷神社もありました。
また馬場や訓練所などもあり、領内に築かれた政庁としての機能を備えていました。・・・配布パンフより引用



柏原歴史民俗資料館横にある、初代藩主、織田信包公


柏原藩初代藩主、織田信包(1543~1614)は、織田信長の実弟。
兄から信頼が厚く、織田軍団の重鎮として各地で戦功があった。
近江・小谷城の浅井攻めの後、長政の正室だった妹、市と三人の娘、茶々、初、江を引き取る。
「本能寺の変」後は秀吉に従い、北条氏の助命を嘆願し、秀吉の不興を買って改易されたといわれる。
その後、慶長三年(1598)に丹波氷上郡で三万六千石を与えられた。
大阪城で豊臣秀頼の後見役を務める一方、藩では佐治一成(江の最初の夫)に命じて治水や殖産興業に努めた事績が伝えられている





案内されている観光スポット・・・全部、拝見しましたよ~