飛龍の滝を訪れ、いよいよ、佐用「三城」を巡ります・・・
・・最初は、上月城です・・
「カーナビ君」を検索して、設定するも、「上月城」出てきません・・よみ、「こうづきじよう」・・なんでやろ?
ここも、手動で、この辺やろう・・っと、感で設定・・・国道373号線を走ると、いきなり、案内の標識が・・・左手山並み見ながら、・・うかっとすると、見過ごしそう・・・一応、Googleストリートビューで見ていますので・・
慌てて、左折・・小さいのです、案内の標識が・・・そして、道案内標識が細い道を左折しようとすると・・・ 写真左は行動から一筋入ったところの案内板です! |
そして、石碑の奥には、立派な御屋敷があります・・・(写真右下)
立石孫一郎・・・天保三年(1832年)~ 慶応二年(1866年)
幕末の尊攘派志士で、播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の大庄屋、大谷五右衛門喜道の長男として生まれる
そして、尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃したとのこと(倉敷浅尾騒動)
松山・岡山藩の追討を受けて逃亡し、頼りとした長州藩の銃撃により殺されたと・・・・
写真にあるお屋敷、現在の表札も、大谷五右衛門さん・・と、先人のブログにありました!
なにか、凄いね・・・上月城は、延元元年(1336年)、赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたもので、その時代から、上月村(兵庫県上月町)の大庄屋?守将?だったのかなぁ?・・・
歴史資料館との間の山裾・大谷家裏手に大谷家墓所があり、宝筐印塔は貞治4年(1365)の銘文があり、石造遺品の紀年銘としては佐用郡内最古として、上月町(現・佐用町)指定文化財(昭和63年)とあります・・
大谷家の前を進むと、広場が・・・右手に「P」・・そして、上月歴史資料館、紙すき文化伝承館があります!
その砂利の「P」に「α君」を停め・・・パンフでは、上月歴史資料館 開館日/土・日・月・祝日 AM10:00~PM4:00 うん?・・今日は平日・・なんで?・・時間あれば、お寄りします・・って、そして、案内板も見ましたが、写真は後でと・・・ |
これから私にとって過酷な登山が始まるとは・・・正直、こんな急な山道とは思いませんでした!!
丸太を切って作った階段、丸太階段の道! 勿論、地道、道幅、そう70センチ前後か?・・ 一旦、踏み外せば・・恐ろしいことに!! そして、見上げるほどの、急な地道の山道が、ジグザクに・・延々と・・・ 山好きな先人はなんの苦労も無いようだが・・・ |
堀切というのは、尾根筋を切った堀で、尾根づたいに攻めてくる敵を防ぐ役割の場所のこと!
ここで、ハァハァと・・息、上がっています・・ふと、眼下を見れば佐用川が見え・・おおぉ・・!
途中から、前を歩いていた、嫁、いません・・先に、登っています・・置いてきぼりにされました!
パンフにあります・・ここからが本番!・・急な斜面を上がっていきますと・・・
いや、ほんと、急な斜面なんです・・・汗、ボタボタと、息、ハァハァと、上がっています!
嫁、呼んでも、返事ありません・・・・頂上、主郭に着いていたのでしょう・・
ホント、ヘトヘト、ゼィゼィいいながら、なんとか、頂上、主郭につきました・・・
嫁・・遅いね、大丈夫?・・って、・・情けない!!
いやぁ・・こんなはずではなかったのです・・が!
頂上、主郭では、江戸時代に建てられたという、供養塔の写真も撮らず、ただ、上月合戦の案内板と、主郭跡だけ、パチリと・・・・・これが精一杯です・・(^^;)
上月城は、戦乱の世、東の織田、西の毛利の狭間で、半年間に2度落城した城、・・秀吉の残した文書に「播州佐用郡内に敵城三つ候」とあり・・佐用町パンフの佐用「三城」を巡る、上月城、福原城、利神城が攻撃対象だったと・・・・
一度目の落城・・秀吉は、福原城を落とし、上月城を攻めます・・城兵の首を全てはね、城内の女子ども、約200人を磔と串刺しして国境に並べるなど、凄惨な結末を迎えます
この時の上月城主の妻が黒田官兵衛の妻・光の姉だったと云われています・・姉のいる城を攻める、黒田官兵衛、心中いかに・・・!
次は、NHK大河ドラマにも出た、尼子勝久を主とする山中鹿之助が入ります
二度目の落城・・・毛利方三万の軍勢によって取り囲まれてしまいます・・
高倉山城(図、赤四角)に陣置くも膠着状態・・・ 秀吉が陣を敷いた高倉山は、上月城から東へ約3kmにある・・ |
主郭から見た、佐用川の一帯の景色の中に、三万もの毛利軍がおれば、恐ろしい光景・・だったでしょう! 木々生い茂り、あまり見えませんが・・・ |
それだけ、播磨・美作・備前の三国の国境に位置する重要な山城だったんですね
頂上、主郭から降ります・・・息、未だ、整っていません・・しかし・・降りなければ!!
嫁・・スタスタ、降りて行きます・・又々、置いてきぼりです!
本来なら、下山道が別にあるらしいのですが、・・・もと来た道を戻ります
上りがきついということは、下りも急勾配・・足、ガクガクです!
写真どころではありません・・しかし、この山道を、一枚、パチリ・・見事、手ぶれです・・片手、杖を付き、片手でシャッター・・無理です! |
なんとか、無事に降りてきました・・汗、ボタボタです、滴り落ちています・・今年、初めての大汗です!
嫁曰く・・遅そ・・っと!
そうそう、この山は、個人の所有物なので、気をつけるよう、注意書きがあります・・はい! 想像ですが、文政八年(一八二五年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されているので、大谷家所有か? 資料館、閉まっているよ・・15時までみたい・・しかし、看板さえ、供養塔さえ、写真も撮ることも忘れ、へたり込んでしまいました! |
感想:昔の人は、足腰、強いやろね・・そして、山城好きな登山家も・・・こんな急勾配の山城・・観光客のおっさんは、大変と思うのは私だけでしょうか?
しかし、嫁・・健脚です・・感服m(_ _)m
では・・次なる三城の一つ・・福原城へ・・・・・ まいりましょう!
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