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2025年5月1日

京都府 木津川古寺巡礼 浄瑠璃寺(九体寺)です

2013年11月 京都 木津川 海住山寺の国宝五重塔を訪ねました
その時、次は浄瑠璃寺を訪ねようと記事に記しました
それから、12年が経ちましたが、やっと訪れる機会がきました

うれしいことに今回は同伴者さんがいます
その方は仕事で知り合い、Blog HTML作成のプロ、私の師匠であり、友人でもあります
その方が京都 木津川古寺に精通しておられ是非ご一緒にということで京都府 木津川古寺を二人して巡礼?いたしました


浄瑠璃寺(九体寺)です
京都府木津川市加茂町西小札場40

参道のお土産店です・・ええ感じじゃないですか!

国宝 浄瑠璃寺 藤原時代とあります
藤原時代とは・・
平安時代中期・後期、遣唐使廃止(894年)から平家滅亡(1285年)までの時代で、藤原氏が摂関政治を行った時代を指します。この時代は、藤原道長や頼通親子が摂政・関白として権力を握り、貴族社会が栄えた時代です
阿弥陀信仰が隆盛し、阿弥陀堂の建立や阿弥陀如来像の制作が盛んになりました

山門

当尾
当尾地域は、奈良の興福寺の別所として、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、多数の石仏や寺院が造立されるなど、仏教文化の花開いた地域です。 ここ浄瑠璃寺もそうした別所の一つとして平安時代後期に創建されたもので、池を挟んで東西に国宝の三重塔と九体阿弥陀堂が建ち、此岸と彼岸、浄土の世界を現しています。 中央の苑池には州浜敷きが復元された中島などがあり、平安時代後期に立された本堂は、九体阿弥陀堂建の現存する唯一の遺例です。庭園は特別名勝及び史跡に指定され、また、周辺の山々には、優れた植生の自然環境が良く保存されています。
京都府歷史的自然環境保全地域  昭和六十年十二月二十日指定 (京都府木津川市加茂町)


真言宗 小田原山 浄瑠璃寺

浄瑠璃寺(九体寺)

京都府の最南端、奈良県との県境に位置するこの一帯は、平安時代に南都(奈良)仏教の聖地として小田原別所と呼ばれていました。
室町時代初期に作成された寺の記録「浄瑠璃寺流記」(重要文化財)によりますと当寺は永承二年(1047)当麻出身の僧義明の発願により、薬師如来を本尊とする西小田原の小堂として始まり、その後薬師如来の浄土である 浄瑠璃世界から、寺名を浄瑠璃寺と称するようになりました
久安六年(1150)には藤原一門の興福寺の僧 惠信が入寺。極楽浄土の 宝池になぞらえた苑池を中心として、西岸に東向きの本堂九体阿弥陀堂 (国宝)、東岸に西向きの三重塔(国宝)を配し、現在の寺院建物の配置が整っ ていきます。本堂には、九体寺という別称の由来となる国宝の九体阿弥陀 如来坐像をはじめとする諸像が、三重塔には重要文化財の薬師如来坐像が 祀られています。


浄瑠璃寺(九体寺)

この寺は平安時代後期(藤原)の日本が生みだした浄土式伽藍がただ一つ完全に残されてきた寺である。即ち方極楽浄土の阿弥陀如 来を西に東方浄瑠璃浄去の薬師如来を東に 中央には宝池をおいて美しい浄土を提出している。 しかも西の阿弥陀如来はこれも現在はただ一つになった九体仏である。特別名勝歴史跡指定の境内には件の国宝・八件の重要文化財、数にして二十五のこれら宝物が昔のままで守り通されている。藤原時代の堂塔仏像 庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍 はいつまでもみんなの力で守らなければならない

〇浄瑠璃浄土とはすみきった清浄と静寂の世界という
 境内では特に静かによごさぬよう気をつけよう


拝観受付
春の特別開扉展 招福の女神 吉祥天像


これより、国宝九体阿弥陀堂

縁を進みます

堂内は撮影禁止のため配布パンフより九体阿弥陀如来像と春の特別開扉展 秘仏 吉祥天像を使わせていただきます
配布パンフより引用

重要文化財 秘仏・吉祥天女像  鎌倉時代
風雨順時、五穀豊穣、天下泰平。 豊かな暮ら と平和を授ける幸福の女神。南都の寺々では 正月にそういう祈願の法要をするのが伝統で吉祥 天の像は多い。この寺の像は建暦二年(1212) にこの本堂へまつられたことだけが記録に残され ている

国宝 九体阿弥陀如来像 藤原時代
平安期の堂・像共に現存するものとしては唯一となった九体阿弥陀仏
西の本尊で、未熟な私た ちを理想の未来へ迎えてくれる如来。
〝観無量寿経〟にある九品往生、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中、下の上と最高の上品上生まで九つの往生の段階があるという考えから、九つの如 来をまつった。中尊は丈六像で.来迎印(下生印)、 他の八体は半丈六像で定印(上生印)を結んでいるている。
なお当寺の九体阿弥陀如来は明治末期以来、約 百十年振りの修理を五カ年をかけ順次行い令和五 年(2023)春に全てが完了した。その際各像 の仏師(制作者)が違うと見られる痕跡が確認さ れた。そのためか各像共、表情や衣紋の様子が微妙に違う



国宝 本堂
向拝
嘉承二年(1107年)再建。寄棟造、本瓦葺き。桁行11間、梁間4間(柱間の数を表す)。堂正面の柱間装置は、左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉とする。隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。平面は「九間四面」、すなわち、桁行9間、梁間2間の身舎の周囲に1間幅の庇をめぐらした形式になる。堂内は板敷きで、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、九体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は身舎、庇とも、天井板を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。屋根は現状本瓦葺きとするが、承元元年(1207年)と嘉暦三年(1328年)に檜皮を葺き替えた記録があり、元は檜皮葺であった。本瓦葺きとなったのは寛文六年(1666年)であり、堂正面の向拝も江戸時代後期に付加されたものである・・Wkipediaより


本堂前の石灯籠(重要文化財・南北朝時代)の火口から望む「国宝三重塔」

国宝 三重塔へ行きましょう

国宝 三重塔

新緑の時期、緑も実に美しい

ちょっと下から煽ってパチリです


国宝 三重塔 藤原時代

平安末の治承二年(1178) 京都一条大宮より移されてきたとの記録が残っている
平安時代洛中にあった塔の唯一の現存例とされている(総高16.08m)
初層内は扉の釈迦八相、 四隅の十六羅漢図などと、装飾文様で壁面が埋め られている
元は仏舎利を納めていたと思われる。 現在は東方本尊の薬師仏を安置している。
檜皮葺き・塔の内部は心柱、四天柱がない




三重塔から望む、西には阿弥陀如来九体を安置する本堂

浄瑠璃寺の伽藍配置は、池を中央にして東に薬師如来を祀る三重塔が、西には阿弥陀如来九体を安置する本堂がある

池手前の石灯籠(重要文化財・南北朝時代)の火口から望む「国宝九体阿弥陀堂」


国宝 九体阿弥陀堂 藤原時代
当時、京都を中心に競って建立された九体阿弥 陀仏をまつるための横長の堂で、現存する唯一の もの(正面十一間、側面四間)。太陽の沈む西方 浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向かって拝め るよう東向きにし前に浄土の池をおき、その対岸 から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたも のである。

当尾京都府歴史的自然環境保全地域(浄瑠璃寺地域)
指定地域は、平安時代後期から鎌倉、室町時代に かけて、浄土信仰の霊地として栄えた当尾地区の東 部及び南部に位置し、歴史的遺産と周囲のすぐれた 天然林等とが一体となって、歴史的風土が形成され ています。今日、「石仏の里」の中心地として多くの 人々に親しまれています。
指定地域のうち浄瑠璃寺地域は、本堂や浄土式 庭園を取り囲む常緑広葉樹林を中心として、 その外側 が落葉広葉樹の二次林、 植栽林等で覆われていま す。そのなかで、この常緑広葉樹林は、ツブラジイ(コ ジイ)やアラカシの巨木がうっそうと茂り、 自然の状態が よく保持されており、地域を代表する自然植生としても 貴重なものです


番外:さて、少し早い昼食 門前のお蕎麦やさんで!

とろろ蕎麦です

美味しかったよ!

浄瑠璃寺・・訪れて本当に良かったです
参拝者さんは僅か、静かな境内、天候にも恵まれ、友人の説明を聞きながら歴史の時を感じながらゆっくりと鑑賞いたしました
特別公開の時は訪れたいと思います

よかった・・これにつきます!



追記:記事中、文言は配布パンフ、Wikipediaより引用いたしました










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