少しはやめにやってきました
しかし、しかし…
外国の方のバスが十数台
いやいや、どこの国かわからん言語、英語圏ではないです
記念撮影中でしたが、大天守をパチリです
久しぶりに、旧西大柱を
ここに展示しているのは旧西大柱で、この柱は、かって大天守の 地階床から六階床までの各階を、もう一本の東大柱とともに些かの 躊躇いもなく力強くつらぬき通し、木造の大きく複雑な重層構造を 二本の大柱が構造主体となり、 一本が百もの重量を支えて三百五 十年もの長きにわたり大天守を守り続けてきた。
然しその間、両大柱とも明暦二(1656)年 (城主榊原忠次) に柱や土台などの腐朽で床面に高低が生じ、このため大柱の根元を高さ 2.4m、柱四面の間仕切り部分を刳り貫き、ここに幅36cm 奥 行もほぼ同じ大きさの梅の角材を挿入し、 帯鉄巻き鋲釘止めで固定 するという補強工事が行われた。その後、貞享元(1684)年には、先 の明暦二年に行われた修理材の上に補強材を加える工事が行われた。 このように築城後三百五十年を大天守と共に歩んできた西大柱が、昭和大修理(昭和31年~昭和39年) で 柱真に腐れのあること が分かり、取換えを余儀なくされ、 新しい柱に後事を託して、今ここに創建材の資料として展示している。
西大柱のこと
旧西大柱の下方は椎材、上方が栂材で三階床上 (下方から14. 5mの位置)で二本継ぎになっていたが、 全長 24.7mにわたり、中心部が蒸腐りを起し再用不能で今回の修理では、桧材で取替えることになり、旧東大柱と同様、一本材の柱にすることになった。
ところが、 原木を山から搬出途中に折損事故が起こり、修理では元通り三階床上での二本継ぎの柱になった。 新しく取替えられた桧 材は、下方が岐阜県恵那郡加子母村の国有林から、また上方は兵庫県 神崎郡市川町笠形神社から伐出されたものである。
ここに展示したのは二本継ぎで使用されていた旧西大柱で、明暦 二年と貞享四年の修理の痕をはっきりとみることができる。
東大柱のこと
もと、 東大柱は縦材で、 継手なしの通し柱であったが、今回の修・ 理では根元 5.4m を台湾桧で根継ぎして再用された。 根継ぎのために切断された旧東大柱の根元部 (長さ 5.4m 太さ横幅 95.4 cm 奥行幅75cm)には、明暦と貞享年間に行われた修理の痕跡 が旧西大柱同様に歴然と残されている。 (旧東大柱根元の切断され た材は、 旧状の儘で現在、兵庫県立歴史博物館で展示されている)
旧西大柱の寸法 総長24.7m 上柱の長さ12.4m 下柱の長さ14.5m (継手長さ2.2m) 根元の太さ横幅95.4cm 奥行幅75cm 末径54cm角 総重量約6屯
旧西大柱展示横より、お城の姿を!
左から、乾小天守・西小天守・大天守
手前の櫓は太鼓櫓・右、今は、公開していない帯郭櫓(腹切丸)
菱の門
わぁ! 人で門が塞がれているぞ!
菱の門をくぐって西の丸へ
今回は特別公開の関係で順路が決められており、西の丸へ行かなければなりません
菱の門
菱の門
姫山 ・ 鷺山 (城山)への入口を固める櫓門で、門の正面には部となる石垣と土塀があり、枡形構造になっています。
「菱の門」の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花が飾られていることに由来します。
鏡柱は1本の太い角柱のようにみえますが、実は板で覆った集成材のようなもので、板の合端を隠すために筋金具を打ちつけています。
外観は、一部を除き白漆喰総塗込めで、柱や貫、長押などの形がそのまま出ているのが特徴です。
2階の正面には黒漆に
飾り金具がついた火灯窓・武者窓が配置されています。入母屋の東西の妻は、西側が素木の木連格子、東側が白漆喰塗込めになっています。
菱の門をくぐって西の丸へ
今回は特別公開の関係で順路が決められており、西の丸へ行かなければなりません
「いの門」から天守へは行くことができません
西の丸からの「乾小天守・西小天守・大天守」左端は「にの門」
西の丸、百間廊下へ
四半瓦
揚羽蝶、城主は池田氏
ヲノ櫓
長局(百間廊下)
百間廊下から眺める、男山配水池公園と、左下、男山千姫天満宮
文字が消えている?
久しぶりです、百間廊下
化粧櫓と千姫
西の丸からの「乾小天守・西小天守・大天守」左端は「にの門」
西の丸、百間廊下へ
四半瓦
揚羽蝶、城主は池田氏
鬼瓦
備前丸から出土、本多家の家紋である三葉立葵紋をかたどった鬼瓦の破片
軒瓦
榊原家の家紋である源氏車紋をかたどった軒丸瓦と滴水瓦
ヲノ櫓
狭間
狭間は鉄砲や弓矢を放つために土塀や櫓などの壁面に開けられた開口部です
円形、三角形、正方形のものは鉄砲狭間(銃眼)、縦長の長方形のものは矢狭間です
西の丸の櫓群には長方形、正方形の狭間が設けられ、外側に漆喰を塗った木の蓋が付けられています
長局(百間廊下)
百間廊下から眺める、男山配水池公園と、左下、男山千姫天満宮
文字が消えている?
久しぶりです、百間廊下
化粧櫓と千姫
今回は公開されていませんでした
千姫と化粧櫓
化粧櫓
西の丸から眺める「乾小天守・西小天守・大天守」
何度見ても、何度訪れても、全く飽きないし、また来たいと思う「姫路城」
順路通り、将軍坂から、天守に向かいます
千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、攻略によって 豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に救い出され、のち本多 忠政の子忠剰に再嫁した。
元和三年忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となっ たとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住みのまま十万石 を与えられ、姫路に移り住んだ。
忠刺と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書九を、桐の 門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれき住んだ。
これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取り こわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院 造りの建物であった。
千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘 男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。 このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。
忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで 勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児をもうり平和な日々 を送ったが、長続きせず、幸千代は三才で早近、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。
千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。
この化粧櫓は、中書丸や武蔵神殿かないいまわずかに 千姫の面影を偲ぶたたひとつの建物である。
化粧櫓
化粧櫓は、千姫が本多忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料 の一部を使用して建設されたといわれる櫓です。
階上には18畳 15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井には杉柾張り、壁面はすべて黒い木枠に紙を張ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした住宅様式になっています。
千姫が城の西北にある千姫天満宮を遥拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したといわれています。
武蔵野御殿など、 桃山時代の居館様式をもつ建物が姫路城内で消失している現在、化粧櫓の存在価値は非常に大きいものがあります。
西の丸から眺める「乾小天守・西小天守・大天守」
何度見ても、何度訪れても、全く飽きないし、また来たいと思う「姫路城」
順路通り、将軍坂から、天守に向かいます
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