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2024年6月23日

備前国一宮 吉備津彦神社・・・岡山市北区一宮です

岡山の神社で備前国一宮、吉備津彦神社は二度目の参拝ですが、記憶が・・・
なぜかなぁ?
思い出せない、大体は、社頭に立てば、おおぉ!と、いって思い出すのですが!
奥にみえる、大きな石灯籠も記憶にないのです
境内にはいれば、記憶がよみがえる?かも・・・
いや~ 困ったもんです


随神門

境内案内図・由緒
御祭神
主神   大吉備津彦命(第七代孝霊天皇の第三皇子・別名 彦五十狭斧彦命)
相神   吉備津彦命(大吉備津彦命の御子・別名 稚武吉備津彦命) 
           孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・彦刺肩別命・天足彦國押人命・
           大倭迹迹日百襲比賣命・大倭迹迹日椎屋比賣命・金山彦大神・大山咋大神

由緒
古代より当社背後の吉備の中山には巨大な磐座(神が鎮座する岩)・磐境(神域を示す巨石群)が 有り、山全体が神の山として崇敬されてきた。
主祭神は大吉備津彦命。命は四道将軍の一人(西道将軍)として山陽道に遣わされ、「温羅」という 鬼神を退治し、吉備国を平定・統治し、現人神として崇められた。 御年二百八十一歳で薨去され、 吉備の中山の南嶺に御陵(茶臼山古墳)を定め葬り奉っている。
仁明天皇承和十年(八四三)十月二十四日一品(いっぽん)爵位を贈送され、一品宮とも一品吉備津 彦大明神とも呼ばれ、吉備国が備前・備中・備後・美作に別れると備前国一宮として崇敬された。 

当社 (備前国一宮  岡山市北区一宮  吉備津彦神社)
         (備中国一宮  岡山市北区吉備津  吉備津神社)
         (備後国一宮  広島県福山市新市町 吉備津神社)

中世には武家や庶民の信仰が厚かったが、日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監によって 社殿がことごとく焼かれた。 江戸時代に入ると岡山藩主池田氏は崇敬厚く、延宝五年(一六七七)に 三百石の社領を寄進、元禄十年(一六九七)には綱政公によって社殿が再建された。昭和三年(一九二八) 十一月十日国幣小社に列せられた。昭和五年(一九三〇)、不慮の火災で御本殿、随神門を除いて焼失、 現在の社殿は昭和十一年(一九三六)の再建である。
神宝類は多く、池田綱政奉納の井上真改作の太刀一振りは“国指定重要文化財〟である。 "岡山県 指定重要文化財〟は御本殿・紙本淡彩神事絵巻(室町時代)など、〝岡山市指定重要文化財〟は随神門・中門・子安神社御本殿拝殿・安政の大石燈籠がある。



       安政の大石燈籠
安政の大石燈籠(岡山市指定重要文化財)
高さ十一メートル、六段づくり、笠石の大きさは八畳敷。文政十三年から安政四年(一八三〇~ 一八五七)にかけて地元有志が発起人となり、天下泰平・国家安全・万民豊楽・五穀豊穣などを 念願し、備前一円と浅口郡の合計一六七〇余人から五六七六両の寄付が寄せられ、安政六年(一八 五九)に完成した。各段には寄進者の名前が刻まれている。 幅広い信仰の証である。



                  左側・大灯籠

拝殿







拝殿前より境内を・・・

狛犬



左側から社殿拝見いたします

祭文殿

本殿

右側から本殿を・・・

左から、祭文殿、渡殿、本殿

辰年ですね

手水舎

元禄十年(1697)の文字が判読できます

さざれ石

昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失したとのこと
現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に完成したものである

安政の大石燈籠・・・
この大石灯籠は、六段造り、高さは十一米、 笠石は八畳敷の広さがあり、まさに日本一 といわれているだけあって、でかいです
大阪の住吉神社の大石燈籠もでかいですけど・・・

ここまで回ってきても前回の記憶がでてこない!
困ったもんです











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