和歌山県を旅しています
熊野三山のひとつ、熊野速玉大社を参拝します
二度目ですが、一度目は、新宮市に宿をとり朝一で、朝早く参拝しました
今回は、夕暮れ・・・午後、15時ぐらいですが、参拝者さんは多いです
社頭
世界遺産
・・紀伊の地の霊場と参詣道
さぁ、参拝いたしましょう
熊野速玉大社の御由緒 熊野速玉大社は悠久の彼方、熊野信仰の原点・神倉山の霊石ゴトビキ岩(天磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神 熊野大須美 大神、家津美御子大神)を、景行天皇五十年の御代(西歴百二十八年)初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。我々の祖先は、美し国熊野に坐しますこの真新しい新宮に大自然の恵み を献じて神々を砕き祀り感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社・神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。このように、原始信仰から神社神道と信仰の形を整えて未来永劫にわたり顕彰し続をもって「新宮」と号するゆえんであります。この尊称はまさに熊野速玉大社が、天地を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有すことの証といえるでしょう。中世、熊野御幸は百平度を仰ぎ、第四六代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。また、境内には熊野信仰の象欲たる「大樹」が登り・熊野館や熊野詣を物語る「熊野御幸」などがあります。
神門
拝殿
注連縄
結宮
左から 「奥御前・三神殿」「上三殿」「八社殿」
右から「八社殿」「上三殿」「奥御前・三神殿」「速玉宮」「結宮」
第四殿 「若宮」 天照大神
熊野御幸
中世・宇多上皇(津五十九代天皇)の延喜七年(西暦九〇七年)から玄輝門院の嘉元元年(西暦一三〇三年)までの三百九十六年間に 上皇女院親王を合せて御二十三方、百田に及ぶ 皇室の御参詣がありこれを熊野御幸と言って熊野三 山史上に不滅の光彩を放っている。
熊野御幸には陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の 御精進を数日向行われて後に御出発になる。白河天皇の 天・永元年九月の御幸には、総人数八百十人、一日の食糧十六石二斗八傅馬百八五匹と「中右記」に記している。 御幸の道順は京都住吉和泉紀伊半島海岸沿いに 南下して田辺・中辺路、本宮熊野川を下って当大社へ 参拝那智山雲取本宮、往路コースを逆行して帰京 されるまでおよそ二枚日に及ぶ難行苦行の旅であった。 熊野御幸によって熊野信仰は公卿武士、庶民の間に 流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と 熊野との文化交流有名な熊野懐紙 幾多の名歌が詠じら れるなど各方面に大きな影響を残している。
熊野御幸の多い上皇は・・・
後白河上皇 三十三度 自:永暦元年(1160)至:建久二年(1191)
後鳥羽上皇 二十九度 自:建久九年(1198)至:承久三年(1221)
今年の大河ドラマ、鎌倉殿の十三人での登場する人物ですね
御神木 椰
・・・熊野から世界へ捧げる平和の祈り
熊野は祈りの聖地として憧れの異界であり、「椰」の葉は霊威ある熊野詣でのお守りとして 古から大切にされてきました。
熊野速玉大社の御神木椰は、樹齢約千年 日本一の椰の大樹として崇められています。 昭和四十七年、沖縄が本土に復帰した年・この神木の苗木が沖縄の地に植樹され、四十年後、各地の農林高等学校で発見されました。 立派に根づいているその姿に、沖縄の苦難の歴 史が重なり一入感慨深く、当大社宮司のもとに 平和を願う心ある人々が集い、平成二十四年六 月「世界平和の祈り」が捧げられました。
平重盛公が国安かれとお手植えされた椰の御 神木は千年の時を刻んで平和を象徴する霊木 となり、訪れる人々を見守り続けています。
どうか、心静かに手を合わせ、全ての命ある ものを慈しみ、世界の平和をお祈り下さい。 ・・・根本熊野大権現 熊野速玉大社
静かな時間を過ごさせていただきました
参拝は二度目ですが、社殿の色彩は見事なものですね
今回も熊野速玉大社、摂社である神倉神社の参拝は断念いたしました
自然石を積み上げた五百数十段の石段を登るのは、無理でしたね(涙)
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