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2022年12月2日

和歌山県への旅・・・熊野本宮大社です

全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮である熊野本宮大社を参拝いたします
熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心です

参拝いたします





マスク着用のお願い

       かなりキツイ石段です
       後で知ったのですが、158段ですって・・・

神門

「試練に耐えた旅人の切なる想いを受けとめる」

杉木立に囲まれた158段の石段参道を登り、 総門をくぐると檜皮葺の威厳に満ちた社殿が 姿をあらわします。 主祭神は家津美御子大神で、本地仏は阿弥陀如来とされていることから、極楽浄土の聖地とみなされてきました。
かつては、「大斎原」と呼ばれる中洲に鎮座していましたが、 明治22(1889)年の水害を受け、免れた上四社三棟を現在地に移築・再建されました。 中辺路・小辺路、そして大峯奥駈道といった、いくつもの参詣道の交差点に鎮座する熊野本宮大社は、熊野詣の最初の目的地であり、ここから熊野川を下り、熊野速玉大社から熊野那智大社へと参詣するのが一般的だったといわれています。


総門をくぐります

御社殿
信仰の原点と熊野権現

熊野は深い森と険しい山岳地帯であることから、山や川、巌や森などを神聖視あるいは神々が降臨し籠っているという自然崇拝に起源をもつ。 また、山や海の彼方には他界があり、そこに死者の霊が往くという山中他界観や海洋他界観という霊魂崇拝の地でもあった。 このよう な宗教観のもとに、熊野本宮大社は川あるいは樹木、熊野速玉大社は巨岩あるいは川、熊野那智大社は滝などに信仰の具現化を見たものと考えられる。
平安時代の浄土信仰の広まりや神仏習合にもとづき、神は仏が衆生済度のため「権」に姿を「現」したものという本地垂迹説により、本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智は千手観音が本地仏とされ、現世利益を求める人びとが直接熊野三山へ参詣するという宗教現象が見られるようになる。



左:証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊) 
重要文化財 文化七年(1810年)建立 入母屋造
右:東御前(若宮・第四殿) 天照大神
重要文化財 享和二年(1802年)建立 入母屋造


証誠殿


西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神 重要文化財 享和二年(1802年)建立
中御前(結宮・第二殿) 速玉大神 重要文化財 享和二年(1802年)建立 
入母屋造 切妻造(正面)・入母屋造(背面)



熊野本宮参詣曼荼羅
熊野本宮観光協会展示品

戦国時代から江戸時代にかけて、熊野三山の修繕費用の寄進集めや、熊野への参拝者誘致を目的に、熊野観心十界図と那智参詣曼荼羅を携えて全国を渡り歩き絵解きをした尼僧「比丘尼(びくに)」。天上界、地獄、餓鬼、畜生、六道などが描かれた絵図を使って、人間が生まれて死んでいくまで、また死後の世界と救済を語り聞かせたとか・・・



総門内からの様子・・・たくさんの方々が参拝にお越しです

拝殿前・・・八咫烏(由来)

熊野では八咫鳥を神の使者と言われています。
三本足とは熊野三党(宇井・ 鈴木・榎本)表わすとも言われ、当社では主祭神家津美御子大神(素盞嗚尊) の御神徳である智・仁・勇、又天・地・人の意をあらわしています。
鳥は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇 御東征の折、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。
又、歴史上の一端より触れて述べれば源平合戦の折 那須与一出身地(栃木県)烏山城は鳥が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したといわれています。


境内の紅葉





       降ります



       この側、鳥居と瑞風殿の間に熊野古道がありました
       ・・・祈り道とあります・・・

この祈りの道で、女性が一人、黙々と何かを拾っていました

・・・なにを拾われているのですか?
椎の実です
これを育てて植林をしています
・・・神社といえば、椎の実ですね、ご苦労様です

参拝を終え、すがすがしい気持ちになりました
遠路はるばるやってきた甲斐がありました
そして、和歌山県の旅のスタートの場所に熊野本宮大社を選びました

そうです
これから、熊野速玉大社、熊野那智大社を巡り、いろんな観光ポイントを巡ってまいります



追記:記事文言は、配布パンフ・Wikipediaなどより引用いたしました











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