ページ

2014年7月29日

越前 丸岡城(霞ヶ城)・・おっちゃん二人旅・・ 登城です!

越前 丸岡城(霞ヶ城)・・第一弾です

平凡な、おっちゃんの友人と、なんと、一泊二日の珍道中が始まりました!
カーナビ君の案内どうりすすみ、丸岡城、「P」の「一筆啓上茶屋」・・クラウン停めます(広く、しかも無料です)!!

さぁ、丸岡城を攻めるぞ、いや、登城しましょう・・・
今回の旅、いろんな経費は全て、会計の友人が支払い担当です・・ですから、私、カメラに集中しますが?・・・

「P」から、階段を上がると・・そこは城・・階段の手すりが、「城」の形です・・(写真)
受付にて、料金を払い・・資料館館共々300円・・です!
受付の側の坂道を上がると左手に・・・おおぉ・・丸岡城のお姿が・・・現れましたよ!
一番先にに目に付くのが、鯱です・・(石製しゃち)
説明板によれば、もとは木彫銅板張りであったのだが、昭和15~17年の修理の際に石製に改めたと・・・
なぜか、当時は戦渦中のため、銅板入手困難のためと・・・
この石の鯱も昭和23年の福井大地震で落下したものです・・・
現在の鯱は、もとの木彫銅板張りに復元されているものとのことです・・・

野面積みの石垣の上にそびえる、現存、最古の天主閣・・ついに!!・・さぁ、登城しましょう・・・
直線の石段を上がりますと、一階はジオラマなどありますが、一起に3階まであがります・・・スリッパありません・・危ないのでしょう・・
今から、上がる、1階から2階、2階から3階への階段の急なこと、めちゃ、急です・・・

登るための補助に結び目のあるロープが用意されていますが・・・
事前にググってYoutubeでその丸尾城の公式案内の動画がありました・・・
その中に、ロープではなく、手すりを持ったほうがいいですよ!・・と、流れていましたので、そのとうりに・・
小高い台地の上に築城されているため、又、東西南北・・素晴らしい景色です・・・


三階の外壁は柱そ外に見せる塗り、周りに欄干のある縁側をつけています・・にでられない飾りです・・・
天井は張られず屋根の骨組みがみえます
二階は三階と広さは同じで一階から二階へ通し柱ではなく、二階から三階までも通し柱ではありません
外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階、二階は三階と広さは同じですと!

さぁ、二階へ・・・・上から見た階段です・・怖いぐらいの傾斜です!
写真右下:階段付近の二階天井部分の梁

狭間から、石瓦を見てみましょうか・・・
笏谷石(しゃくだにいし)の天守屋根瓦・・笏谷石は、福井市足羽山(あすわやま)や一乗谷付近で採石されるとのこと!
色が違うのは、白いのが新しいもの、黒くなっているのが、創建当時のものと・・・

懸魚を部屋内から、パチリ・・こんな間近で、いや、こんな風に、写真に収められる・・ラッキです!
写真右上:二階天井から三階の光が見えます・・板張りの隙間が・・・
さぁ、一階です・・・丸岡城、城下町のジオラマがあり・・・このなかに「忍者3人、くノ一が2人がいます・・さぁ?」とあります!
友人・・一生懸命探しています・・そして、やはり、くノ一を発見していました(笑)

明治時代の丸岡城の写真がありますが・・反射してうまく撮せません・・・
明治初期、明治34(1901)年、明治45(1912)年はなんとか・・・・

石落とし・・

狭間・・引き戸で開閉できるようです?
一階の天井の梁・・・
写真右上:出口の石段を上から・・さぁ下城ましょう・・・
外へ出て、天主閣を一周してみますか・・・

石垣は野面積みでなかなか、美しものです・・
その石垣によじ登ろうとしている奴がおる・・・だれじゃ、不届きなものは・・m(_ _)m


下から見上げる石落としが・・・

友人が発見・・・石垣の石に名が刻まれている・・赤枠
名前? 石工 山川照 四十一才」とある・・
いつの時代の方かなぁ??
解体修理の時か?・・・・・

そして、・・・?・・
よく、わかりません・・
後でググって分かりましたが・・
丸岡城保存修理工事暴露試験実施・・・

丸岡城について・・・・

世によく知られている・・「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙は丸岡藩藩主、本田成重のことです

現存天主十二城・・全国の国宝に指定されている四城と重要文化財に指定されているのは八城
丸岡城は、旧法では、国宝、今は重要文化財・・・しかし、現存する天守閣中で最も古い建築であるといわれている!
福井大震災で倒壊したが、できるかぎり古材を活用して昭和30年(1955)に再建されたのです

天正3(1575)年、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するために大軍を派遣し、当時丸岡の東北4kmの山中にあった豊原寺(とよはらじ)を攻略し寺坊を悉く焼き払った。
信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、守護職とし、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4(1576)年、豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である・・・説明板より引用
      
さぁ、ここで、天主閣の見物は終わりました・・・実はこれから、予想もしていない案内人と巡り会うことに・・・
ボランティアガイドさん・・・他の方に丸岡城、絶景ポイントがありますよ!・・と、説明されていました

で、勿論、私は「どこですか?」と聞きました・・が、友人は目を合わさない?・・なぜか、捕まると、話し、長くなるからと・・うん?
しかし、これが一転・・周りから見る、絶景の丸岡城の違ったお姿を見ることができようとは!!・・・

・・・続きます・・丸岡城、第二弾へと・・・





0 件のコメント:

コメントを投稿