平凡な、おっちゃんの友人と、なんと、一泊二日の珍道中が始まりました!
カーナビ君の案内どうりすすみ、丸岡城、「P」の「一筆啓上茶屋」・・クラウン停めます(広く、しかも無料です)!!
今回の旅、いろんな経費は全て、会計の友人が支払い担当です・・ですから、私、カメラに集中しますが?・・・
「P」から、階段を上がると・・そこは城・・階段の手すりが、「城」の形です・・(写真)
受付の側の坂道を上がると左手に・・・おおぉ・・丸岡城のお姿が・・・現れましたよ!
なぜか、当時は戦渦中のため、銅板入手困難のためと・・・
この石の鯱も昭和23年の福井大地震で落下したものです・・・
現在の鯱は、もとの木彫銅板張りに復元されているものとのことです・・・
野面積みの石垣の上にそびえる、現存、最古の天主閣・・ついに!!・・さぁ、登城しましょう・・・
今から、上がる、1階から2階、2階から3階への階段の急なこと、めちゃ、急です・・・
登るための補助に結び目のあるロープが用意されていますが・・・ 事前にググってYoutubeでその丸尾城の公式案内の動画がありました・・・ その中に、ロープではなく、手すりを持ったほうがいいですよ!・・と、流れていましたので、そのとうりに・・ |
三階の外壁は柱そ外に見せる塗り、周りに欄干のある縁側をつけています・・にでられない飾りです・・・
天井は張られず屋根の骨組みがみえます
外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階、二階は三階と広さは同じですと!
写真右下:階段付近の二階天井部分の梁
狭間から、石瓦を見てみましょうか・・・
色が違うのは、白いのが新しいもの、黒くなっているのが、創建当時のものと・・・
懸魚を部屋内から、パチリ・・こんな間近で、いや、こんな風に、写真に収められる・・ラッキです!
さぁ、一階です・・・丸岡城、城下町のジオラマがあり・・・このなかに「忍者3人、くノ一が2人がいます・・さぁ?」とあります!
明治時代の丸岡城の写真がありますが・・反射してうまく撮せません・・・
明治初期、明治34(1901)年、明治45(1912)年はなんとか・・・・
石落とし・・
狭間・・引き戸で開閉できるようです?
外へ出て、天主閣を一周してみますか・・・
石垣は野面積みでなかなか、美しものです・・
その石垣によじ登ろうとしている奴がおる・・・だれじゃ、不届きなものは・・m(_ _)m
下から見上げる石落としが・・・
友人が発見・・・石垣の石に名が刻まれている・・赤枠
名前? 石工 山川照 四十一才」とある・・ いつの時代の方かなぁ?? 解体修理の時か?・・・・・ |
そして、・・・?・・
よく、わかりません・・ 後でググって分かりましたが・・ 丸岡城保存修理工事暴露試験実施・・・ |
丸岡城について・・・・
世によく知られている・・「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙は丸岡藩藩主、本田成重のことです
現存天主十二城・・全国の国宝に指定されている四城と重要文化財に指定されているのは八城
丸岡城は、旧法では、国宝、今は重要文化財・・・しかし、現存する天守閣中で最も古い建築であるといわれている!
福井大震災で倒壊したが、できるかぎり古材を活用して昭和30年(1955)に再建されたのです
天正3(1575)年、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するために大軍を派遣し、当時丸岡の東北4kmの山中にあった豊原寺(とよはらじ)を攻略し寺坊を悉く焼き払った。
信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、守護職とし、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4(1576)年、豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である・・・説明板より引用
さぁ、ここで、天主閣の見物は終わりました・・・実はこれから、予想もしていない案内人と巡り会うことに・・・
ボランティアガイドさん・・・他の方に丸岡城、絶景ポイントがありますよ!・・と、説明されていました
で、勿論、私は「どこですか?」と聞きました・・が、友人は目を合わさない?・・なぜか、捕まると、話し、長くなるからと・・うん?
しかし、これが一転・・周りから見る、絶景の丸岡城の違ったお姿を見ることができようとは!!・・・
・・・続きます・・丸岡城、第二弾へと・・・
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