三熊山(高熊山)の山頂付近北斜面、北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で広さは、27万8459.9平方メートル・・・
標高133mに建つ、国内最古の鉄筋コンクリート製模擬天守!
三熊山に城が築かれたのは、およそ500年ほど前のこと、現在残っているような石垣の城が築かれだしたのはおよそ400年前のことと・・・下図の案内図からも、分かるように、洲本城の遺構・・石垣群・・その石垣は、美しく、見事な姿です・・・
下図:案内板より引用
洲本城の沿革は・・そして、国内最古の鉄筋コンクリート製模擬天守については・・
・・・・長文のため、後述(最下部)します・・・・
実は、洲本城は、二度目の登城?なのです・・・
勿論、備忘録を作成する以前の遙か昔の登城です!・・ですから、記憶をたどりながら・・・そして、「カーナビ君」の案内のまま・・・登城です!
洲本城は、「上の城」と「下の城」とあり、・・勿論、「上の城」から、参ります・・・
一応、ググってきています・・車で大手門まで上れるが、西登り石垣などを見ながら登るのが、おすすめ・・と、ありますが・・!
いや、うん?・・「α君」で、大手門まで・・行きます・・m(_ _)m
山の南側から、洲本温泉?へ抜ける道路を走ります・・・
途中、左折して、山登りです・・すると、「洲本城跡」の標識が・・・
そのとうり左折、曲がると・・「P」二箇所ありますけど・・一つ上の「P」へ・・・
うん、確かに覚えています・・・この月見台から見える、洲本温泉方面・・絶景です・・右が由良で、霞みが無ければ、海峡の左に友が島が見えるでしょうが・・!
そして、本丸の石垣の下の広場!、・・なんと云うのかなぁ・・ 名称が無い? でも、広い・・!
さぁ、本丸大石段をあがりましょう・・・素晴らしい石垣です・・
おおお・・見えました、天主閣です・・・
石段あがると・・・おおぉ。。いやいや、絶景です!
青い空、青い海・・大阪湾が・・洲本八景1大浜を大観・・と、あります!
史跡 洲本城について・・の、側にある、案内板をじっくり読んで・・・
・・・うん、うん、へぇ~と、嫁と二人して・・・勉強です!
階段ありません・・・階段の基礎はあります 階段の上は網で覆われ、封鎖してます!
たしか、前回は登れて、絶景を楽しんだ記憶がありますが・・・・
・・後述しますが、ググってみて、閉鎖理由・・判明(-_-)しました・・・
写真右上:天主台から見える、淡路島西側の山並み・・淡路島って、山々なんです・・島ですからね・・・平野は少ないでしょうね!
さぁ、降りましょうか・・・本丸を降りると、・・・「芝右衛門狸のおはなし」という案内板と社が・・・
来た道と違う方へ・・本丸搦手虎口へ・・そこから見る角度の違う天主閣の姿も・・・
本丸搦手虎口を上から見ると・・・ 赤丸部分は門の礎石か?・・ 意外と、幅の狭い門かも?・・ |
振り返ると、この石垣にも木々生え、木々に覆われ・・時が流れ、時間とともに、素晴らしい自然の姿になるのでしょうね!
ふと、見上げれば・・木々がね・・又々、スゴイよね!
その反対側は、「南の丸」が広がり・・
奥には立派な石垣が見えます |
すすむと、コンクリートでできた鳥居が・・八王子木戸とあります・・・行ってみましょう・・!
大永年間(1500年中頃)、安宅隠岐守治興が、洲本城を構築の際勧進したものとされ、洲本城の鎮守の神社であると・・・ 蛇の神様を祀っているという。巨大な石があり、信仰の対象とされていたとある・・岩石が崩れるのか、立ち入り禁止箇所もあり・・ なにか、もの寂しさを感じましたが・・・ |
途中に、日月の池(じつげつのいけ)・・谷地の湧き水を、石垣を築いて池にしている、日月の井戸もあります・・(写真右下:a赤丸部分)
さぁ、そろそろ、帰りましょうか・・・登城の際に通った大手門跡を・・・・
さぁ、上の城を、下山します・・・よく整備、手入れされて、トイレも綺麗!・・多くの観光客きたらいいのにね!・・この石垣の美と、この絶景を・・ぜひ!・・ね・・・
では・・・下山して、下の城へと、・・・
下の城は寛永八年(1631)、蜂須賀家の城代として由良にいた稲田九郎兵衛は城下経営の不便を訴え、ここ洲本に政庁を移した。これを「由良引け」という。
この時に整備されたのが山麓北側に見られる濠と石垣である。山上の城を「上の城」、山麓のものを「下の城」と呼んでいる。
そのお堀?から、上の城を望むと・・・青空に天主閣がそびえています・・う~ん!・・優雅です!!
写真右下・・写真左下を、ちょっとだけ・・ズームアップ・・・
写真左下:堀端に道標が・・・江戸時代の呼び名・・御門筋・・洲本警察署の北向きの道?そして、八幡宮前通とあります
写真右下:洲本城跡碑
さぁ、二度目の洲本城・・・見事な石垣・・よき天気で、よき眺望でした・・・洲本城、満喫しました!
・・・長文になりました・・・そして、写真の数も多く・・・(*^_^*)
・・沿革・・
1500年代初頭(大永年間)紀州熊野水軍の安宅治興が築城開始した。治興の後は養子安宅冬康(三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ、1581年(天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。
江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。これは関ヶ原の戦い以降も、豊臣方大名の動きを牽制するために、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘と大坂湾一帯を防衛させるためとされる。
大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。 現在は曲輪、池、石段、石垣、櫓跡などが残る。天守台からの眺望「大浜を大観」と三熊山東側展望台からの「マリーナを展望」は洲本八景の1、2に選ばれている。
現在ある模擬天守は、1928年(昭和3年)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のものである。
「由良引け」以降に築かれ、明治まで続いた「下の城」とは史跡としては全く別の時代のものと考えられ、「上の城」と分類 されている。
上の城は1999年(平成11年)1月14日、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定されている。 下の城の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化史料館などがある。
・・上記文中及び、沿革は案内板、Wikipediaより引用・・
・・洲本城で天主閣で、ググってみたら・・
国内最古の鉄筋コンクリート製模擬天守・・・
大阪湾が一望できる三熊山(133m)にある洲本城は昭和3年に建造された。
2011年(平成23年)3月天守の外壁に複数のひび割れが見つかり、原因は老朽化とみられ、市は天守への立ち入りを禁止
文化庁は平成10年、史跡の保存や整備について、有識者らでつくる調査研究会を設置。史跡の復元の際は、外観を見た人に誤解を与えないため「当時の図面や写真を基に行う」方針が出された。
背景には、各地で観光目的の「天守」が乱立、専門家から「(史跡の)価値が損なわれる」という批判が相次いだことがあるという。
洲本城の場合、天守の傷みが激しく、全面的な改修が必要になれば、文化庁の方針にある「復元」に相当。現在の模擬天守ではなく、戦国時代の築城当時の再建が求められる可能性がある。
一方で当時の資料や500年前の図面は残っておらず、再建は極めて困難という
近年、整備が行われているが、2011年(平成23年)3月はじめに模擬天守の壁面にひび割れが見つかり、補修工事を行うも、模擬天守への立ち入りは禁止されていたが、2013年3月から本格的に改修工事が行われ、9月までに屋根瓦の吹き替えと耐震補強工事が完了した。
大規模な改修が必要になれば、文化庁の方針で、約500年前の築城当時の姿を再建しなくてはならないことが判明した。しかし、当時の資料は残っておらず、再建は絶望的な状況。80年以上の歴史を持つ天守は、まちのシンボルとしても親しまれており、市は10月以降に出される調査結果の行方に気をもんでいる。・・2011年9月産経関西ニュースより、引用
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