茨木城の遺構は、ほとんどないらしい・・ググっていくと、・・・
茨木小学校の復元された櫓門、茨木神社に移築された搦手門、 慈光院に移築された楼門・・
残っていません・・・今回は、茨木小学校の復元された櫓門を尋ねます
茨木城の本丸は、現在の茨木小学校北部あったとされる・・
今なお遺構(堀や門など)を残す小学校に奈良県大和郡山市小泉、慈光院に移設された茨木城楼門を原寸大の木造瓦葺きで復元しました
茨木城は、建武年間(1334年-1336年)に楠木正成が築いたのが始まりとされている・・・
そして、十五世紀から十六世紀前半頃まで城主であったと推定される・・
その後、次々と城主が替わり、有名なのは、中川清秀、片桐且元です
写真左下:土塀の校名は織部焼きで造られています(校門横の説明より引用)
写真と文が前後しますが、・・・校門を目指して、「カーナビ君」の案内で・・・この茨木市内も商用でウロウロしたところ、・・・市役所付近も車、結構混み合いますし、一歩、町内、路地に入ると、道幅狭く、一方通行も多い場所・・・
そんななか、ゆったり、探しながら走ると・・・新しい家が並ぶ中、一軒、古民家が在りました・・ 「うだつ」もちゃんとあります・・ その他、もう一軒ありましたが・・写真、ありません・・(「α君」停めれません) ・・道幅・・ほんと、狭いです!、 |
一方通行・・「α君」停めようかなぁ・・後ろから車・・あちゃ! もう一周してこなければ・・・
そう、駐車して、写真など撮れません・・・結果、2周してきて、急ぎ、写真を撮りました!
今回、NHK大河ドラマ黒田官兵衛から巡ってきた、有岡城跡、荒木村重・・そして、高槻城跡、高山右近・・・
NHK大河ドラマでてくる、茨木城は、中川清秀が・・
そう、摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が没落すると、荒木村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となったのです
荒木村重、謀反の折り、高山右近は、織田信長に子、妹を人質にだしていたため、降伏・・・
この中川清秀、高山右近とは、従兄弟にあたる縁故であるということもあって、村重についたが同年10月28日に信長の調略によって茨木城を開城し織田軍に寝返ったのです!
逸話として、村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをおこなったのは中川清秀の家臣とされる・・NKH大河ドラマでも描かれていたが、これが事実とすれば、清秀は謀反の原因を作った上に、村重の恭順の意思を説得して翻らせ、次いで寝返ったことになり、向背めまぐるしい戦国時代としてもかなり特異な例である・・・どんな人物か・・しかし・・・
信長死後、秀吉につき、高山右近とともに山崎の戦いで活躍し、死後、家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した・・と!(Wikipedia引用)
そして、茨木城は・・・
片桐且元、貞隆兄弟が、関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)に、茨木城の城主となる
その後、江戸幕府は「一国一城令」を発布、これにより摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった
元和2年(1616年)の茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊され、約200年続いた歴史に幕をおろしたのである(Wikipedea引用)
時間があれば、茨木神社に移築されたと言われている搦手門にもいってみたかったのですが・・!
色々巡ってまいりました・・・さぁ、次は何処へいこうかのぉ!! 「α君」よ!
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