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2025年5月7日

よみがえる古代の都 恭仁宮跡及び山城国分寺跡は国史跡です

2013年ごろ、遷都の地を巡っていました
その時、海住山寺・国宝五重塔の拝観と同じ日に、ここ恭仁宮にやってきました

配布パンフより引用


2013年11月 「遷都の地を尋ねて・恭仁京です」
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2013/11/blog-post_30.html

地図をみれば、広大な地が分かります
配布パンフより引用

さらにGoogleMapでみれば、これから記事中に載せる写真の位置もよく分かるのです
Google Map
京都府と奈良県の境に近い木津川市加茂町の瓶原地域には、現在美しい田園風景が広がっています。 ここに、天平十二年(740) 聖武天皇によって恭仁宮が造営され、平城京から都が遷されました。 恭仁宮では「墾田永年私財法」が定められるなど、 歴史上の重要な舞台となりました。 
宮の規模は、東西約560m、南北約750mであることが調査にて判明した。四周に大垣が廻り、宮城門としては現在のところ東面南門を確認している。宮中央やや北側に大極殿院地区があり、大極殿基壇の規模は東西約60m、南北約30mを測る。基壇上には建物の北西隅と南西隅に原位置をとどめる花崗岩製礎石2基と、移動及び転用された凝灰岩製礎石6基が残存する。基壇化粧は現状では瓦積みであるが、恭仁宮大極殿段階での姿は不明である。基壇上には東西9間×南北4間の大極殿建物が復元可能であり、その規模から見て、『続日本紀』の記載どおり、平城宮第一次大極殿を移築したものと考えるのが妥当である。大極殿回廊についても大極殿同様平城宮から移築したと見られる。・・令和6年度発掘調査資料より



まずはここからです

恭仁宮大極殿と山城国分寺跡

この場所は、天平十二年(740)十二月十五日に、聖武天皇が「恭仁宮に幸す」 と宣言して、平城京(奈良市)から遷都して来たところで、恭仁京と呼ばれました。
聖武天皇が恭仁京に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地をい ただき、南に平野がひらけてその中央を泉川(木津川)がゆったりと流れる瓶原の環 境も無視できない重要な要素でした。「万葉集」には、新しき都を讃める歌が収録され ています。
三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮ところ 定めけらしも(1051)
咲く花の色は変らず ももしきの 大宮人ぞ たち変りける(1061) このように新京を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや「泉川」と呼ば れた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。
恭仁京の中心には、天皇の住まいや国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、 宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。そこには平城宮から移築された大 極殿がそびえ、天平の甍が輝いていたのです。 現在、 恭仁小学校の裏にある土壇が恭 仁宮大極殿の跡で、昭和五十一年(1976) 京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。
宮はわずか五年余りの短命な都でしたが、この大極殿をはじめ、恭仁宮の中心部はのちに山城国分寺として再利用されました。大極殿(国分寺金堂)跡の東側は 国分寺の鎮守社として祀られていた御霊神社の境内地だったところで、永年地域の氏 神として信仰を集めていた柱にはや椿が繁茂して、大極殿跡とともに歴史的な景観 を保っています。 仁宮跡の発掘調査は、昭和四十九年(一九七四)より京都府教育 委員会によって行われ、平成八年(一九九六)には宮域が確定しました。・・木津川市教育委員会

「朝堂院・東大門」

 「大極殿院地区」

史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)

恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平十二年(七四〇)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平十六年(七四四) にわずか四年あまりで廃都されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになり
ます。 山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北 三町(約三三〇m)、東西二町半(約二七五m)の広大な寺域をもつ寺でした。 山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地 表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周 囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であっ たと推定されます‥木津川市教育委員会


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

近寄って、礎石を・・・
下写真、左上隅の森は御霊神社跡

恭仁京大極殿址


  恭仁宮跡 内裏地区
下赤丸・・・「海住山寺」の看板がみえる

少しズームしてみた! はっきり「海住山寺」が読めるね

山城国分寺跡 (山背国分寺跡)



お堂の前にある外国人用の案内
かつての皇都 恭仁宮跡
小高い丘に囲まれた御香原盆地は、740年から744年にかけて、かつて皇居であった恭仁宮の所在地でした。4年間、ここに国の都が置かれていました。現在、御香原は木津川のすぐ北に位置する、野花が咲き誇る広大な野原となっています。しかし、よく見ると、あちこちに石板が散在しているのが分かります。これらは恭仁宮の跡です。現在、このエリアは地元の人々が訪れ、屋外で過ごすことができる公共スペースとなっています。恭仁宮跡は、今もなお地域の文化と遺産の重要な一部となっています。

歴史
740年、戦乱と疫病に見舞われた日本は、ますます不安定になっていきました。聖武天皇(701~756年)は、疫病の蔓延を防ぐため、遷都を布告しました。この遷都は、有力な公家である藤原氏と橘氏の間の権力闘争を強く示唆するものとも考えられています。藤原氏は既存の都である平城京で権力を握っていました。橘氏の勢力基盤は南山城であり、この遷都は立花氏にとって有利な勢力への転換を意味していた可能性があります。しかし、翌年、天皇が恭仁京で新年を迎える正式な儀式を行った際には、皇居はまだ完成していませんでした。翌年も、都はまだ建設中で居住に適さない状態だったため、新年の儀式は仮設の建物で執り行わざるを得ませんでした。744年、天皇は再び都を難波宮に遷都し、恭仁京の都としての在位期間はわずか3年で終わりを迎えました。都は未完成のまま残され、同年、恭仁京の残された建物は山城国分寺に編入されました。

現在、皇居に残るのは礎石のみです。近くには、かつて寺院の七重塔であった礎石があります。1973年の発掘調査では、さらに多くの建物の基礎が発掘されました。

右上のQRコードを読み込むと、Youtubeで紹介されていますね

海住山寺の特別公開の案内
ここに現光寺が一緒に載っているのは?
調べてみました
現光寺は、海住山寺からみて南東約3km、木津川市加茂町大字北にある小さな寺院で、海住山寺が管理しています。その詳しい由緒は明らかでありませんが、元禄十年(1697)に再興された時、海住山寺縁起絵巻の詞書撰者である真敬法親王(興福寺一乗院門跡)が落成を賀したこと、正徳二年(1712)に貞慶上人の五百年忌に際して海住山寺の本堂開帳が行われた時、現光寺の住僧が参詣したことなどは、海住山寺とのつながりのもとで歩んできた歴史を物語っています・・・解脱上人特集より


背後の建物は、木津川市立恭仁小学校

恭仁京大極殿址

       少し古そうな石標


この時代、全国的に天然痘が流行し、人々の不安は高まっていました。
また、政治面においても、大きな権力を持っていた藤原四兄弟が相次いでこの世を去り、皇族出身の橘諸兄が政治の主導権を握りました。
 しかし、これに不満を持った藤原広嗣が反乱を起こし、都の動揺は著しいものでした。
天平十二年(740)、 聖武天皇は、疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まっていた事態を一新するため、平城京からの遷都を決意し、山背国相楽郡恭仁 郷を新しい都と定め遷都しました。その後、難波宮、再び平城京へと都が遷っていき ました。
恭仁宮は、 それまでの都に比べ規模も小さく、 短命な都でしたが、この間、諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じたり、 墾田永年私財法など重要な政策を行い、日本の中心としてその役割を果たしました。 また、この時期に紫香楽宮で、都が平城京に戻って、後には、山城の国の国分寺として生まれ変わり、七重塔が造営されるなど大和に次ぐ国 としてふさわしい規模の国分寺が営まれました。


12年ぶりの恭仁宮跡散策でした
そして、久しぶりに恭仁宮跡に関するいろんな記事を拝読して、さらに興味が深まりました
すべての遷都の地は巡っていますが、また付近を通るとき、ゆっくり訪ねてみたいです


追記:同じような内容文言が多いですが、ご容赦を!













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