平城京、藤原宮跡、伝飛鳥板蓋宮跡、近江大津宮錦織遺跡、長岡京・・・
残すは、8番目の恭仁京、9番目の柴香楽宮、2番目の難波長柄豊崎宮、10番目の難波宮、13番目の平安京なんです
実は、11月15日に恭仁京跡を訪れました
そして、遅ればせながら、今回、この備忘録を記します!
では、遷都の地を尋ねて「恭仁京」です!
恭仁京、京都府木津川市に位置します
永きに渡る、遷都の歴史、すっかり、ハマッテしまい、残るは、恭仁京と難波宮、紫香楽宮なのです!
平安京は、別として、数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京の遷都の歴史
ふと、訪ねてみようかなぁと、一人、「α君」に乗り、それも、一般道を、のんびりと思いに更けググってきています
このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政は困窮に・・恭仁京の造営を中止し、都は未完成と・・・
さぁ、一番先に訪れる場所、勿論、資料館です!
国道163号線沿いの都府立山城郷土資料館
資料をいただき、館内を拝見、当然写真は不可
山城地域には多くの遺跡があるとのこと、南山城地方の考古、歴史、民族の各分野で展示されており、出土品から、宇治茶の製造まで幅広く展示されていました
入口付近には、大阪城の残石が・・
徳川幕府が元和六年(1620)から行った大阪城の改築のとき、津藩の藤堂高虎が、現在の加茂町から切り出したものとのこと
案内板の地図から、木津川を下って大阪城へと!
では、国道163号線を伊賀上野方面へ、木津川沿いに走ります
そして、国道163号線から左手山側に、木津川市立恭仁小学校のすぐ側に、恭仁京跡、山城国分寺跡があります
その国道163号線に、どんと、看板があります
その先を左折して、すぐに、木津川市立恭仁小学校があり、そのそばに「α君」を停め、散策 散策じゃなくて、そこが、恭仁京跡なのです! |
いただいた資料の地図をみながら、小学校の山側へ、大極殿跡です
その敷地には、大極殿跡が位置し、石碑に恭仁京大極殿址と刻まれています 難波宮へ遷った後は、恭仁京大極殿が、山城国分寺の金堂に再利用されたと云われています |
その、反対側の石碑には、山城国分寺址と(写真左下)
その側で、恭仁京大極殿址の石碑が倒れている、寂しいね!(写真右下)
その敷地、公園のような敷地の奥には、朽ち果てた五輪塔?、お墓があり、そこに「クロガネモチ」という木が・・
木の皮は染料となり、「トリモチ」もつくりますと、なにか、根っこ部分が瘤に
多分、枝、落とされて一本にされたような?
そして、その奥のコスモス畑、花が咲いています
「折らないで」の看板、小学生3、4年生が手入れしてるのでしょうね!
でも、看板立てるということは、折る人がいるってこと・・・寂しいね!
そして、その反対側の広い敷地に、山城国分寺塔跡が・・
この塔跡には、瓦積の上に花崗岩製の巨大な礎石が並んでいます
七重の塔が築かれたと、考えられています
柿の木も、沢山、実をつけています
恭仁京は東西約560m、南北約750mの範囲を宮大垣と呼ばれる土塀で囲っていたと・・
右下図:クリックすると拡大します、位置関係がよくわかります(散策マップ引用)
そして、744年聖武天皇は恭仁京から、難波宮へ都を遷しました
その際、平城京から運ばれた大極殿はそのまま、恭仁京に残され、恭仁京大極殿が、山城国分寺の金堂に再利用されたと云われています
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短命とはいえ、ここに、都があったのです
平常宮の約1/3と小さいことも分かってきたとのこと、又、共通点、相違点が何によるものか、謎が明らかになっていくでしょう
そして、跡地周辺は、芝生もキレイに刈られ・・そして、恭仁京跡地でしょうが、「P」につかわれるのか、広い敷地があり、全体によく、整備されていますね! |
さぁ、戻りましょう
・おっと、小学校の柵の中にトイレが・・なにかイベントとの時に利用されるとのこと
考えていますね
遷都の巡る旅も、今時点11月15日で、難波宮、紫香楽宮を残すのみです!
では、恭仁京の北側の山中にある、古寺古刹、国宝、五重の塔のある、海住山寺へ参りましょう
追記:11月17日に難波宮跡訪ねました
内容は私の主観によるもので正確性を検証していません。文中、Wikipedeaさん、散策マップより、一部引用いたしました
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