配布パンフより |
岩船寺は天平元年(729) 聖武天皇の勅願寺として行基が創立したという。
その後嵯峨天皇の命により、弘法大師の甥の智泉大徳が皇子 (仁明天皇)の無事誕生を祈願し、その感謝として堂塔伽藍が整備された。
現在、本堂には像高3mに近いけやきの一木造で、 胎内に天慶九年 (946) に製作した旨の墨書銘を持つ重要文化財阿弥 陀如来坐像を安置する。
本堂での特別公開を拝観いたしました
さぁ、重要文化財 三重塔です
新緑が実に美しい、紅葉もいいが、私は新緑がお気に入りです
塔前の説明板
岩船寺三重塔 三間三重塔婆、本瓦葺
今回特別開戸 撮影OKです
さぁ、重要文化財 三重塔です
新緑が実に美しい、紅葉もいいが、私は新緑がお気に入りです
仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで永和年間に宝塔を建立したと伝える
現存する塔は嘉吉二年(1442)の刻銘があることからこの時建立とされる
塔前の説明板
岩船寺三重塔 三間三重塔婆、本瓦葺
塔は境内の奥、 本堂の南側山手に、東を正面として建つ。 建立年代は、二重西側丸桁に室町時代前期の嘉吉二年 (1442) の刻銘があることから、 この時の建立とされる。
初重の1辺は 3.424m、高さは相輪の頂上まで18.265m。 総高のうち棟高が 67.6%を占め、また初重1辺との比をみ ると、 総高は 5.33 倍、 棟高は3.60 倍となり、 現存する三重塔のなかでは初重総間は平均的なものよりやや小さく 総高は平均的な塔である。
柱間装置は各重とも中央間が板扉構、 両脇間は連子窓とする。 組物は和様三手先組で、 組物端部には拳鼻を付ける が、初重は大仏様系、二・三重目のものは禅宗様と意匠を変え、 隅の大斗には皿を付けるなど組物の手法に工夫が凝ら されている。
初重の内部は四天柱の前2本を省略して来迎柱とし、来迎壁、須弥壇を設け、天井は折上げ小組格天井として中央部をさらに折上げている。 来迎壁は正面に涅槃、 背面に五大明王、扉に八方天、 脇間板壁には真言八祖、 来迎柱には昇 龍、降龍、長押には装飾文様を、 それぞれ極彩色で描いていた。
これらは永年の間に剥落や傷みが進み、 図様は定かでなくなっていたが、 平成3年に内部彩色文様の復原模写が行 われ、平成12年から同15年にかけて実施された保存修理によって、 初重内部の荘厳が復原された。
今回特別開戸 撮影OKです
初層は、高欄のない縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束
来迎壁は正面に涅槃、 背面に五大明王、扉に八方天、 脇間板壁には真言八祖、 来迎柱には昇 龍、降龍、長押には装飾文様を、 それぞれ極彩色で描いている
東面
西面
斜めから‥
反対側を‥
三重塔の隅木受飾束
保存に支障のないものは現在も使用され、 三重塔の軒を支えている。
隅鬼(重要文化財)
三重塔の四隅の垂木を支えるユーモラスな木彫。本堂内では、昭和十八年(1943年)の大修理の際に取り外された隅鬼を拝むことができる。
塔の隅垂木を支える木彫の天邪鬼
塔の隅垂木を支える木彫の天邪鬼
塔の隅垂木を支える木彫の天邪鬼
塔の隅垂木を支える木彫の天邪鬼
亀腹
古くは縁は設けず、基壇を築いて建てたていたが、平安時代末になると初重に縁を設けるものが現れる
山の急な石段を登ったら三重塔の全景をやや見下ろす場所へがあることを知り、頑張りました
いやいや、足下が‥無事到着です
ただし、Nikon Z7 24-70mmでは画角に入らず、スマホでパチリです
ただし、Nikon Z7 24-70mmでは画角に入らず、スマホでパチリです
四隅の鬼瓦
高欄
塔の隅垂木を支える木彫の天邪鬼
高欄
真ん中の戸が開いているようです
拡大して、明るく現像してみました
これ、心柱?
「塔あれこれ・塔各部の名称」‥勉強になりました
私たちが「塔」と聞くと寺院建築の仏塔(塔婆) のことが浮かぶ。 その源流は、インドのストゥーパ及び中国仏教建築の高塔で、中国の仏塔は楼閣建築と重層建築である。
これが朝鮮半 島を経て我が国に伝来した。
これが朝鮮半 島を経て我が国に伝来した。
材料によって、木造塔、石塔、鉄塔、銅塔、瓦塔、泥塔、ある いは紙に書いた画塔、印塔に分けられる。 形式として多層塔 (3,5,7,9,13層)、 多宝塔、宝塔、宝篋印塔、五輪塔等に分類される。
日本では『日本書紀』 によると敏達天皇14年(585)に飛鳥大野丘の北に塔が建てられたのが最初で、その形式規模は明らかでない。これに次ぐのが推古天皇元年 (593)から建てられた飛鳥・法興寺の塔で、百済から来た工人達の手によるものです。
現存する最古の塔である法隆寺五重塔は7世紀後半から8世紀初めに建てられたもので、同じ形式技法をもつ法起寺 三重塔は慶雲三年 (706) に露盤を上げている。
飛鳥時代から白鳳時代にかけて、 大和を中心に次々と大寺が建てられ、3層、5層の塔だけではなく、七重塔や九重塔、八角塔も建てられている。
平安時代にも、塔の造営は盛んであるが、密教の伝来に伴って一重の宝塔、二重の多宝塔が建てられるようになる。
鎌倉時代になって新たに伝えられた臨済曹洞の禅二宗 ではあまり塔を重視していない。 また新興宗派の浄土宗では 塔は必須の建物ではなく、日蓮宗、 真宗でも塔を備えるものは 少ない
塔はもともと釈迦の墓としての意味を持つもので、 釈迦の骨と称する仏舎利を納めるのが原則で、 木造塔では心礎の中、 相輪の中心柱の中に納めている。これらは仏舎利を見えな いところに納めた例であるが、仏舎利塔本尊として最初に 納めた建物として海住山寺五重塔がある。 塔には仏舎利の ほかにも仏像を安置する場合がある。
木造塔の構造は、中心に心柱を建て、周囲に四天柱と側柱 を建て、層分だけの木造建築を作る。 初層は中央に仏壇を作り、仏像を安置し、内部を装飾するが、 第2層以上は構造材を 露出し室として設備をしていない。 心柱は最上層の屋根上に 突出し相輪を載せる。心柱と周囲の部分とは構造的に関係 がなく、平安時代末から心柱は初重上部で止まるものが現 れ、三重塔は鎌倉時代以後、ほとんど第2層で心柱を止める。 五重塔では海住山寺五重塔が最古の例であるが、時代が 下っても第1層まで達しているものも少なくない。
現在、国指定文化財の木造の塔は130基あまり、 そのうち 国宝は30基である。京都府内には重要文化財19基、うち国 宝4基である。 そして府立山城郷土資料館の所在する木津 川市内には国宝2基、重要文化財1基の塔がある
どの姿がいいのかパチリを続けました

過去、塔の隅垂木を支える木彫は、数カ所の塔で拝見しましたね
柏原八幡宮、三重塔・・中井権次一統の足跡を巡って
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2018/05/3625_23.htm
名草神社・・・まずは、三重塔から・・・兵庫県養父市
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
これからも注意して探してみようね
なかなか見応えのある岩船寺でしたね
三重塔が特別開扉されてので、二周して、その後、坂道これは!いう石の階段を登り上から眺め、見とれていました
いや~ よかったですよ
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
これからも注意して探してみようね
なかなか見応えのある岩船寺でしたね
三重塔が特別開扉されてので、二周して、その後、坂道これは!いう石の階段を登り上から眺め、見とれていました
いや~ よかったですよ
重要文化財 石室不動明王立像 (鎌倉時代)で眼病平癒をお願いしてきました
友人から「個人情報はすべてお話してお願いして下さいよ」と、云われました
で、再度お願いいたしました
追記:記事中文言は配布パンフより引用しました
で、再度お願いいたしました
追記:記事中文言は配布パンフより引用しました
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