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2025年5月8日

国史跡 (飛鳥時代) 高麗寺跡 です

12年ぶりに京都府木津川 恭仁宮跡を散策しました
そんなとき、地図を見ていたら、僅かな距離で、国史跡 (飛鳥時代)高麗寺跡があるではないですか、これは行かなければと‥ね

高麗寺跡 [国史跡 (飛鳥時代) 昭和15年指定]
高麗寺は、7世紀初頭 (飛鳥時代)に創建されたわが国最古の仏教寺院のひとつです。
この地がかつての相楽郡大狛郷に属することから、朝鮮三国のうちのひとつ高句麗からの渡来系氏族、狛氏とのかかわりが指摘されており、文献資料からは、天平年中 ( 奈良時代) に存在したことが 「日本霊異記」に記されています。
伽藍は木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔をもつ法起寺式の伽藍配置となります。 塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続します。寺城は東西に約200m、南北に約190mの規模をもち、その周辺には、諸堂塔に葺かれた瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡上狛東遺跡 が発見されています。


史跡高麗寺跡

史跡高麗寺跡
名称:高麗寺跡(木津川市山城町上狛高麗)
指定年月日:昭和15年8月30日 平成22年2月22日 追加指定
指定面積:20,100.5㎡

高麗寺跡は、飛鳥時代(7世紀初頭)に創建された寺院跡です。 寺域は、東西約190m、 南北約180m (回廊で囲まれた伽藍中心部大きさは東西約 61.9m、南北約 65.6m)を有し、史跡指定面積は、寺域の約60% にあたります。
高麗寺の呼称は9世紀に書かれた仏教説話集 『日本霊異記』に見ることができ、周辺には「上狛」や「下狛」のように「狛」を伴う地名を遺しています。
4~7世紀に朝鮮半島北東部を支配した高句麗から渡来した氏族狛 (高麗) 氏と関係する
寺院とも考えられています。
伽藍配置は東に塔、西に金堂を配する法起寺式で、背後の講堂から両翼に延びた回廊は塔・金堂を囲み中門に至りますが、南門・中門・金堂が南北一直線に並ぶのが特徴です
高麗寺の伽藍の大規模な修理は奈良時代か ら平安時代前期におこなわれましたが、 鎌倉時代 には完全に姿を消したと考えられます。
史跡整備は、平成22年(2010) から開始され令 和3年(2021) 史跡公園として開園しました。

道路右側が南門跡・南辺築地塀跡

金堂跡
金堂は、寺院において、本尊を安置する最も重要な建物です。
基壇は、東西約16.0m (54尺) 南北約13.4m (45尺) の長方形で、周囲に幅約1.7m (5.5尺) の石敷 (犬走り) がめぐっています。 基壇の高さは、推定約1.2m (4尺)。 半分に割った平瓦を平積みする瓦積基壇で、地面から直接瓦を積み上げています。
基壇上の礎石は、完全に失われていましたが、礎石の抜き取り痕跡により、 建物規模は間口5 間、奥行4間と考えられます。 また、基壇上からは、昭和9~10年 (1934~1935) の道路改修工事で、屋根を装飾する金銅製金具などが出土しました。 この工事を契機に高麗寺跡の研究が進展し、 昭和15年(1940) の史跡指定につながりました。
この瓦積基壇は、発掘成果をもとに本来の位置で推定復元したものです。


瓦積基壇と石敷 (犬走り)

基壇上の礎石

講堂跡
講堂とは、僧侶が経典を講義したり勉強をしていたところです。
基壇は、東西 23.8m (80尺)、南北 19.6m (66尺)、高さは約 0.6mで、塔や金堂の基壇より約1m低くなっています。 石は位置で2ヶ所(AとB) 残りますが、他の礎石は失われていました。また、発掘調査では回廊が取り付くで瓦積基壇を確認しています
瓦積基壇は塔や金堂とは異なり、長さ0.3mの石を敷いた上に半分に割った平瓦を積み上げています。基壇の周囲には幅 0.8mの犬走りがめぐります。
建物規模は、失われた石の抜き取りから間口5間奥行き4間です。?間寸法は、間口が約3.9m(13尺) 間、 奥行は 中央2間が約3.7m(12.5尺) 南北間が約3.9m(13尺)と推定できます。
講堂基壇の整備では、2ヶ所の石を原位置で残しながらコンクリートブロック により、失われた位を明示しています。また、瓦積基壇の位置を明示するため模擬平瓦を基壇上??に設置しています。

回廊跡
回廊とは寺院の中心となる愛を取り囲み内外を隔てる建物です。
回廊の遺稿は講堂の南寄りに取り付く北回廊の一部を確認し基壇は幅約5.4m (18尺) 高さは約0.3m(1尺) で、 講堂に向けて徐々に上っていくことがわかりました。また、回廊の推定しています。一方、東回廊の内側では基壇?を縁取った石列が確認されました。
これとを縁南北中線を基準に、回廊で囲まれる東西の規模は約61.9m(208尺) と確定できました。 ただし、 南道路に あたるため未確認です。 さらに、金堂と南門が一直線に並ぶ ことから、その間に中門が位置すると考え、その両側面に接続する南回廊を推定しました。
回廊廊で囲まれた南北の規模は約55.8m (189尺)と考えられます。
回廊の整備では、北回廊と東西の回廊の基壇を?土で明示しました。
東・西の回廊は南に向かって傾斜します。


配置図
配布パンフより

南門跡 南辺築地塀跡

南門は、寺院の正面に位置するいわば正門であり、東西両翼には土を突き固めた築地塀を築いて内外を隔てていました。
発掘調査の結果、 南門は、東西回廊の中央を通る中軸線上に位置するのではなく、金堂の南にあることがわかりました。 また、南門から北へ延びる幅約1.8m (6尺)の石敷参道を検出したことにより、金堂との間に中門の存在が推定でき、南門・中門・金堂が南北一直線上に並ぶ特異な配置となることが判明しました。 礎石が3ヶ所で検出されていることから、 南門の規模は間口3間、奥行2間と推定していますが、 基壇の大きさは不明です。
寺域の南限を画する南辺築地塀は、発掘調査では未確認です。瓦の堆積が南門を挟んだ東西計約70mにわたり確認され、これが南辺築地塀から落下したも のと考えられます。 築地塀の規模は、南門との取り付き部の調査で、基底部の幅 は約1.5m (5尺)と推定できました。
現状では遺構は表示していません。


国史跡 (飛鳥時代)高麗寺跡 は初めて訪れました
この京都府木津川近辺にはまだまだ訪れていない場所が数多くあります
しかし、我が家から簡単に行こうかという地域ではないのです
特別公開とかの時期に決めて行くように考えましょうかね!

来てよかったです!














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