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2023年5月26日

神戸市の西国街道(フラワー通り)沿いの「三宮神社」です

その場所は、兵庫県神戸市中央区三宮町2-4-4、西国街道 フラワー通りです

神戸市内をぶらつくのは、何十年ぶりか?
いや、ルミナリエで来たか?
それでも相当な年月日が経過しているよ

そして、「三宮神社」を発見・・・全然知りませんでした
今回は嫁と同行なので、時間をかけて、写真撮影はできません
が、なんとか主要な箇所は押さえました
三宮のビジネス街高層ビルが立ち並ぶ一画にあるとは・・・

社頭です
背面の建物は、神戸セントモルガン教会・・・これもまた、知りませんでした

鳥居

三宮神社 由豬
案内板より文字起こし、してみました


御神:湍津婚市 (天照大神之御子)
御鎮座:神戸市中央区二宮町(旧地名)攝津國失田部神户村

御由緒
国際港戸市の中心に鎮座して商工業・交通安全・知恵授けの御神徳の高い守護神である
創祀年代不詳なれど江戸時代享保年間の手水鉢寛延元年の石灯籠が現存しているが、それらは以前尼崎藩領であった為藩公の信仰の篤い所から奉納されたものと伝聞されている。
明治維新以前は周辺は三・四十戸余りの田園的一寒村であったが、慶應三年十二月七日 一八六八年一日一日)に神戸のが開港され居留地が設定されるに至って急速に開発されそれまでうっ蒼とした鎮守の森の景観が著し、失われると共に神域中心に、商家・商館等が建ち並び異常な発展を遂げる事になった。
明治六年十一月に県令でで三宮神社の社名が二宮町の地名となる。
神社は昭和二十年に第二次世界大戦の空襲戦渦で灰燼と化し、その後都市復興計画により
神域は極めて狭小となり再三の移転を経た上 社殿が造営され更 境内整備が進められて荘厳なる神城になった。
 平成七年一月十七午前五時四十八分の大震災に因り甚大なる倒損の被害に遭ったが、斯くの
ごとく復興・復旧と相成ったのである。
境内には三宮稲荷・安高稲荷大明神の末社があり、古くから霊験あらたかな神として広汎な
信仰をえている。
本殿東側には河原霊社がある。源平生田ノ森合戦の際戦況が膠着状の時、河原太郎高直・次郎盛直兄弟が先陣を切って行って出て源氏方勝利の道を拓いた勇者の霊を祀った小社である。


参道の干支、方位図


参拝です

手水舎
・享保年間の手水鉢

      史蹟 神戸事件発生地
生麦事件と同じようなこととは薄々は知ってはいたが、この際調べてみました

神戸事件は、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる]。明治政府初の外交問題となった。

この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展した。その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見たが、相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる480人(800人説もある[要出典])は大砲を伴って陸路を進んだ[注 1]。この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた迂回路「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。

1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとした。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。

これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況見分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない。

なお、備前藩兵の後続軍は前方での騒動に気付き、西国街道の迂回路である徳川道を通過し、事件と関わっていない。
・・・全文、Wikipediaより引用いたしました


西側から・・・


久しぶりに、センター街、元町商店街、南京町、ぶらぶらしましょうか・・・ね










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